旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第3回 四国お遍路 徳島編 前編

 四国お遍路の旅に出ました。2度目です。これまで会社の金や自分の金で日本や海外のいろんなところへ行きました。しかし、四国お遍路ほど面白い旅はありません。毎日のように驚きと感動があります。4つの県を通して回ると1か月以上かかってしまうので1つの県を回ったら帰宅するようにしました。

  お遍路の作法 

 全く自己流でやっています。しかし、門から入る時に帽子を取るなど、お寺に敬意を払うことは基本だと思います。私の場合は本堂にお賽銭をあげ、手を合わせた後、般若心経を読みます。次に大師堂へ行き、お賽銭は上げずに、般若心経を読みます。般若心経には神様も天国も出てきません。この世にあるものが「空」であることを悟れば苦しみから解放されると説く哲学のようなお経です。ただし、このことは学んで学べるものではなく、修行して真言を唱えて会得せよと言っているところが哲学ではなく宗教なのでしょう。私のように不信心な者でも抵抗が無いお経です。これだけです。納経(お参りした証拠に納経帳にハンコを押してくれる)はしません。この費用は300円ですが、88ケ所もあるので全部で26400円もかかります。前回はお賽銭も出しませんでした。これではあんまりだと思い今回は100円出しています。また、今回は1日目と2日目はロウソクと線香を立てていましたが、予想外に時間がかかるので3日目からこれもやめました。これで怒られたことはありません。

 服装は白装束ではなくハイキングのような格好で、傘ではなく普通のキャップをかぶり、杖ではなくウォーキングストックを持っています。これでもお遍路だとすぐわかるようです。

ガイドブック

 JTBパブリッシングから「大人の遠足シリーズ 四国八十八ケ所を歩く」と言う本が出ています。これをガイドブックにして計画を立てました。ほぼ正確です。ここではこのガイドブックに無い情報を中心に書いていきます。

 

 1日目 旅のはじまりは撫養(ムヤ)街道

 江戸時代の四国の玄関口は鳴門の撫養(ムヤ)港でした。そこから、途中 徳島から来る伊予街道と合流して伊予まで続く街道が撫養街道で江戸時代の幹線道路でした。札所1番から10番まではこの道路沿いにあります。ただし、今は国道バイパス沿いに経済の中心が移行してしまい廃業した商店や廃屋が目立つさびれた田舎道になっています。食堂はおろかコンビニさえ無いので食料の調達は都市部でやっておかないとひもじい思いをすることになります。

 JR高徳線の池谷(イケノタニ)駅に午後1時過ぎに着きました。無人駅です。JR四国はコストをギリギリまで削減しなければならない状況にあり、大半の駅は無人駅で、切符売場やトイレさえない駅があります。SUICAICOCAのような電子カードは使えません。そんな設備投資はできないのです。従って、小銭や、少なくとも千円札は用意する必要があります。電子カードの便利さを痛感します。

池谷駅 高徳線鳴門線の合流する駅

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 駅を降りたら撫養街道へ入り、1番札所とは逆に鳴門方面へ向かいます。今回は2度目のお遍路で、これが最後のつもりなので番外霊場もできるだけ回ってみるつもりです。

 約3kmで東林院があります。1番札所霊山寺奥の院の位置づけですが、寺の規模は大きくほぼ独立しています。種蒔大師の別名があります。下の写真は宇志比古神社入口ですが、これが東林院への入り口です。神社と寺が隣り合わせのセットになっている場所はここだけではなく、あちこちにあります。共存体制だったのではないかと推測します。明治時代の廃仏毀釈運動がそれをぶち壊そうとしました。この野蛮な破壊活動の傷跡はあちこちで見ることができます。

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東林院(種蒔大師)です。

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 東林院にお参りした後、隣の阿波神社へ細道があったので行ってみました。阿波神社の祭神は土御門天皇でした。後鳥羽上皇鎌倉幕府を相手に戦争を起こした「承久の変」の時の天皇で、敗戦後この場所に流された、その屋敷跡とあります。鳴門の市街地からかなり離れており、ほぼ流刑状態だったと推測されます。その土御門天皇の墓と見られる塚もあり、宮内庁管理で立入禁止になっていました。

 そこから撫養街道を西へ向かいました。番外霊場 十輪寺はゼロ番札所との別名があり、行ってみたかったのですが、目印が無く通り過ぎてしまいました。札所に昇格しないと看板を立ててくれないようです。

 これが撫養街道です。さびれた田舎道です。緑色の線をたどると1番札所 霊山寺へ行けます。

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 1番札所 霊山寺です。山門の隣にみやげ物屋があり、お遍路の装束や杖など小道具を売っています。以前来た時は遍路装束のマネキンが山門の前に立っていました。今は幸いなことにどかされて奥の方に置いてあります。前回来た時は印象が薄かったのですが、今回来てみると本堂が他の寺より一回り大きいことに気がつきました。お賽銭を入れ、ろうそくに火をつけて燈明台に差し、線香に火をつけて香炉に差し、般若心経を読みます。他の寺では本堂の外でお経を読みますが、ここでは中で読むことができました。声が響いて気持ち良い。次に大師堂へ行き般若心経を読みます。

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 お遍路の1番札所でありながら門前町はありません。最寄り駅はJRの坂東駅ですが駅前商店街と言えるような街もありません。お遍路の人数はコロナ禍以前で年間5万人から30万人と言われています。数字のばらつきが大きいのは、1ケ所でも参拝した人も数えるか、いくつか回った人だけを数えるかの違いでしょう。そうすると小さい方の年間5万人がお遍路の実態と言うことになります。そのほとんどは観光バスあるいはマイカーで、私のように列車・バスを使う人も含めて歩き遍路は10%程度と言われています。つまり、歩き遍路は年間5千人くらいです。多いようですが1日あたりでは14人にしかなりません。しかも今はオフシーズンです。実際に今回は歩き遍路には1日に2~3人しか出会いませんでした。これでは門前町は維持できません。

 霊山寺の前の道路は川北街道という新しい道です。一応 撫養街道にこだわって、少し遠回りですが街道に戻り、2番札所 極楽寺を目指します。20分ほどで着きます。極楽寺から3番札所 金泉寺までは細い遍路道が街道とは別にありました。遍路道にはおそらく地元のボランティアの方々が中心に作ったと思われる道しるべがあります。ただし、ボランティアの熱心さの度合いによるのでしょうが、道しるべの密度が場所によって大きく違い、肝心なところに無い場合があります。県ごとに見ると徳島県が最も熱心で香川>高知>愛媛の順になるような気がします。新興住宅地、工業地帯では道しるべが無い場合が多い。お遍路などにかまっていられないのでしょう。 

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 金泉寺で今日の予定は終わり。板野駅まで歩いて列車で徳島へ戻りビジネスホテルに泊まりました。本来は寺のそばにある遍路宿に泊まるべきでしょうが、使い慣れたホテルに泊まっています。そんな変則的な遍路旅です。この日の歩数は17000歩でした。

 2日目 撫養街道を進み、吉野川の中州を横断する。

 今日はガイドブックの2日分を1日で回ります。歩く距離は40km近くなるはずです。そこで、日の出前にホテルを出て列車で板野駅に向かいました。ちょうど明るくなるころ歩き出します。朝の撫養街道です。 

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 そんな寂しい田舎道に床屋があり、このポスターを出していました。丸坊主が得意らしい。おかしくてしばらく笑いながら歩いていました。マスクをしていてもばれたかもしれない。

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 道端のお堂のようですが、これが番外霊場 宝国寺です。般若心経を読んで先に進みます。

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 これは番外霊場 愛然院です。まだ朝早いので般若心経を読んでいたら、お寺の奥さんが不審そうに顔を出しました。既に1時間ほど歩いて暑くなってきたので服装を薄くします。f:id:tanemaki_garden:20211209145526j:plain

 ここから4番札所 大日寺へは街道ではなく遍路道を行きます。完全に日が昇り鳥の声がうるさいほどでした。1時間ほどかかります。ここで最初の遍路道に出会います。ゴミが落ちていないという何でもないことに感動します。

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大日寺は京都の神護寺(東寺)の末寺です。神護寺高野山の京都支所のようなものと理解していますが、ここは孫支所ということになります。大きな寺です。 

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 ここから遍路道を30分ほど下っていくと5番札所 地蔵寺があります。地蔵寺の名物は五百羅漢です。拝観料300円。故人に似た仏像が必ずあると言われていますが、私は見つけられませんでした。

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 さらに1時間ほど歩いて6番札所 安楽寺です。

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 7番札所 十楽寺はすぐ近くです。ガイドブックはここまでが1日行程としています。しかし、まだ午前十時なので、さらに先へ行きます。気まぐれではなく、予定通りです。

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 8番札所 熊谷寺まで十楽寺から4kmとされていますが、ずいぶん遠く感じました。疲れてきました。ここで持ってきたコンビニおにぎりで昼食です。写真は江戸時代に作られた多宝塔です。

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 9番札所 法輪寺 ガイドブックには田畑の中にあるこんもりとした森を見つければ、そこにある。と書いてありますが、こんもりとした森はたくさんあるし、今は田畑の中に建物が多数あるので、この探し方では見つかりません。道しるべがあるのでそれに従って探すことになります。確かに村のお寺のような小規模なお寺です。

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 10番札所 切幡寺へ向かう途中にある小豆洗い大師。小さなお堂ですが番外霊場です。

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 10番札所 切幡寺にはかなり坂を上らなければなりません。みやげ物屋と民宿が数件ある門前町にはすぐたどりつくのですが、そこから寺までかなり遠くて、門前町を過ぎてからが本格的な登りになります。

 10番札所 切幡寺にある大塔。豊臣家が神宮寺という寺に作ったものが、明治時代に廃仏毀釈で神宮寺が廃寺になったため、ここに移築されたものだそうです。一つ一つの部品が大きめで荒々しく豪壮な感じです。

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 切幡寺の伝説はなかなかにすごいです。弘法大師がある娘に布を所望したところ、その娘が布を切って寄進したことからこの寺の名前があります。その娘の仏門に入りたいという願いを大師が聞き届けたところ、その娘は千手観音に姿を変え、さらに即身仏となった。この寺の本尊はその即身仏であるという。

 即身仏とはミイラのことです。しかも千手観音の形をしたミイラとなると完全にホラーです。もちろん秘仏であり誰も見ることはできません。

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 切幡寺から眺めた吉野川流域の平野です。これからの予定は帰るだけです。この平野を横切り阿波川島駅を目指します。途中 吉野川の中州(善入寺島)を横断します。川にかかる橋が沈下橋(潜水橋)です。欄干が無く川が増水しても橋が壊れないようになっています。

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 中州(善入寺島)は広大な野菜畑になっています。しかし、民家はありません。何年かに一度水没するので民家は建てられないのです。

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 沈下橋にしても中州における農地にしても何年かに一度の洪水を前提に作られています。現代の政治家や官僚はスーパー堤防とか高架橋とか作りたがるでしょうが、何年かに一度しかない現象ですから過大な投資はするべきではないとの考え方は共感できます。

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 沈下橋は車1台が通れる広さしかありません。対向車同士は橋の入り口で譲り合います。歩行者の避難スペースはありますが、川の上で車と出合うのはこわい。私は走って渡りました。

 この日は阿波川島駅まで歩いて終了です。歩数は49000歩でした。長くなったので3日以降は別の会にします。