旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第16回 四国お遍路 愛媛編・前編

1日目 宇和島に到着。ここから先に線路はありません。

 2回目の遍路旅は愛媛県に入りました。宇和島に着いたのは午後3時前。

 

 まず、宇和島の鎮守 和霊神社に向かいました。祭神は宇和島藩家老だった山家公頼という実在の人物です。無実の罪で殺され、その後関係者が次々と死んだので怨霊の祟りと恐れた人々が神社を作って鎮魂した。菅原道真の話に似ています。今では七五三のお祓いも受け付ける優しい神様になっています。

 

 近くに多賀神社という小さな神社があったので行ってみました。ところが、これがなかなかのエロエロ神社で中に博物館があり、よくぞ集めた感心するスケベ品が並んでいます。ギリシャレスリングを描いた土器など性器が必要以上に強調してあって大笑いです。歴史の風格の点で秘宝館よりも上かもしれません。ほとんど人はいません。

 宇和島市内には別格霊場龍光院」があります。ちょうどバスで来たお遍路の団体と遭遇しました。

 龍光院から見た宇和島城天守閣です。大きくはありませんが、江戸時代に作られた貴重な本物です。

 特に申請していませんでしたが、全国旅行支援が適用され、ホテルから2000円の現金と3000円分のクーポン券をもらいました。クーポン券は地域・日付限定なのでさっそくそのホテルで和牛ステーキに使ってしまいました。上々のスタートでした。なお、この支援の適用にはコロナワクチン接種証明書が必要です。旅行には持って歩くべきです。

 2日目 三間(みま)盆地から卯之町

 JR予土線で務田(むでん)駅へ向かいます。超ローカル線で2時間に1本程度しかありません。ホームで待っていたのはホビートレインという珍列車でした。先頭は新幹線の初期の型に似せてあり、ご丁寧に社内の掲示には名古屋・新大阪などの地名があります。1両編成のワンマン列車です。乗客はお遍路4人と中高生が10人ほど。

 

 務田(むでん)駅で降りて、少し遠回りですが旧遍路道の「窓の峠」を歩いてみました。遍路道を歩いていつも感動するのはゴミが落ちていないことです。ところが、この道はゴミだらけでした。もう遍路道とは認知されていないのかもしれません。

 

 旧遍路道はすぐに車道に合流してあとは朝もやの中を1時間ほど歩きます。正面の鳥居は稲荷神社のもので目指す41番龍光寺はこの左隣です。ここも寺と神社がペアになっています。朝早いのに遍路が何人か来ていました。ほとんどがバスか自動車です。

 

 42番佛木寺までは約1時間。この区間は山中を歩きます。高低差はそれほどありません。寺から眺めると朝霧が雲海のようでした。

 

 佛木寺名物の茅葺きの鐘楼です。お寺のご接待で抹茶と和菓子をごちそうになりました。抹茶など20年ぶりかもしれません。そこでここから立間駅まで歩き列車で卯之町まで行って次の明石(あけいし)寺まで行くつもりだと話したところ直接歩くことを勧められました。13~14kmだそうです。まだ10時だったので行けると判断しました。右は帰り際に振り返って見た佛木寺の山門です。

 

 佛木寺明石寺遍路道は2018年の西日本豪雨の地滑りで閉鎖されていましたが、最近復旧したとのことでした。最初の方は道しるべも完備していて快調でした。

 

 問題の地滑り現場です。このはしごは鎖で固定されています。この下は崖です。カメラなどリュックにしまい込み、両手を使えるようにして四つん這いで登りました。

 道は狭い尾根の上です。足を踏み外すと転落します。足元に集中して登っていきます。この峠は歯長(はなが)峠といい、かっては伊予と土佐を結ぶ街道であり、戦国時代に土佐の長曾我部軍が伊予に攻め込んだルートだそうです。峠を越えたあたりで街が見えました。たぶん卯之町でしょう。

 

 峠を降りたところに遍路の墓がありました。88ヵ所の約半分のところで疲労が蓄積するのでしょう。特に愛媛県は寺と寺との間隔が広いような気がします。

 43番明石(あけいし)寺についたのは14:00頃。列車を使うのとほぼ同じはずです。歯長峠越えの大冒険(私としては)があったのでこの歩き旅は正解でした。前を歩いているお遍路は白人のカップルです。日本語はほとんど話せないようです。それでもお遍路はできるのです。

 この門前で観光バスのお遍路団体とすれ違いました。上から見下ろされるわけですが歩いている私の方が優位でしょう。下は明石寺の本堂と大師堂です。 

 

 明石寺から歩いて卯之町駅に向かいました。卯之町は松山~宇和島の街道の宿場町だったそうで、とても風情があります。特急が止まるのに卯之町駅は無人駅でした。

 卯之町から松山までJR特急で約1時間。その間に札所はありません。この地域は真言宗の空白地帯というわけです。理由はわかりません。十夜ヶ橋(トヨガハシ)という番外霊場があるだけです。ここには前回来た時立ち寄りました。空海が泊るところが無く10日過ごしたという橋です。今はコンクリート製になっています。それよりも全部歩く遍路たちにとってこの区間は難路でしょう。それに次の44番大寶寺は久万(くま)高原の山中にあります。この日は約36000歩、30kmの行程でした。

 3日目 久万(くま)高原にて森の寺 大寶寺から岩の寺 岩屋寺

 松山駅前からJRバスの始発で久万高原へ向かいます。乗客はお遍路が10人ほどと中高生です。お遍路2人が折り畳み自転車を持ち込んでいました。

 44番大寶(たいほう)寺はバス停から歩20分ほどのところにあります。前回来た時この寺への入り口でなぜか鳥肌が立ちました。私は霊感など信じるタイプではないのですが、冷気が森から降りてきて右側の渓流から上がってくる蒸気と合流し、静けさの中の鳥の声と水の音、それに路傍の苔むした石仏群、何とも言えない雰囲気があります。ここに来るのは朝がいいと思います。

 

 44番 大寶(たいほう)寺 本堂です。森に包まれた寺でした。ここから森を抜けて45番 岩屋寺に向かいます。  45番 岩屋寺に向かう道は2通りあり。一つは空海が設置したと言われる旧道 八丁坂で、修行のためにわざと難路にしたとの伝説があります。もう一つは新道 県道です。前回来たときは八丁坂への入り口が見つかりませんでした。今回もダメで結局 県道を歩いて到着しました。しかし、そのおかげで古岩屋(ふるいわや)のすばらしい紅葉が見物できました。

 古岩屋は礫岩を川が侵食してできた礫岩峰が連なっている場所です。崖に大きな岩が埋まっていて、丸い岩もあります。丸い岩は川でできるはずなので、その岩が海に流れて堆積してそこが隆起して、また河川に削られてと、複雑な経緯があったはずです。

 なかなかすごい光景でした。

 

 45番岩屋寺も礫岩峰の真下にあります。寺の上の崖はオーバーハングになっていて、いつ岩が落ちてきてもおかしくない状態です。本堂は1927年、大師堂は1920年建立とそれほど古くはありませんが、約100年 落石が無かったことになります。

 少し離れると岩山が本尊というのがよくわかります。この迫力はなかなか写真では表現し切れません。

 岩屋寺の山門です。旧道・八丁坂を来ると、この門に着いたはずです。その道を来れず残念。

 岩屋寺の下からのバスに間に合ったので体力温存のためにバスで下山しました。このバスは1日に3本しかありません。久万高原で少し時間があったので大寶寺にもう一度行って鳥肌の原因を探ってみました。その原因は不明でしたが種田山頭火の句碑を発見しました。「朝まゐりは わたくし一人 銀杏ちりしく」やはりこの寺は朝がいいようです。この日は32000歩 26kmでした。

4日目 最初のお遍路 衛門三郎の足跡をたどる。

 昨日と同じ久万高原行きのJR四国バスに乗り、途中の塩の森で下車。ここから下り坂を46番浄瑠璃寺に向かいます。ところがここでまた旧道を見失い、新道を降りることになりました。結果的には早く着きましたが面白みには欠ける旅になりました。またまた残念。写真は塩の森のバス停からの風景です。三坂峠と呼ばれています。

 途中のため池の上を漂う朝もや。鴨が数羽いました。

 三坂峠から浄瑠璃寺への下り坂は難路と聞いていたので、ゆっくりした時間割を考えていましたが、新道の舗装道路を快調に駆け下りたので予定より1時間早く着いてしまいました。46番浄瑠璃寺の本堂です。

 浄瑠璃寺の名物 イブキビャクシンの大木。空海のお手植えとされ樹齢千年と言われる霊木です。

 浄瑠璃寺の門前にあった正岡子規の句碑。ここから今日一日 最初のお遍路 衛門三郎の足跡を辿る旅になりました。「永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺

 47番八坂寺は46番浄瑠璃寺から約1kmのところにあります。

 八坂寺にも句碑がありました。私の場合、不仕合(ふしあわせ)とは言えないと思うのですが、昨年父が百歳で亡くなり、彼が子供のころ徳島に短期間ですが住んでいてしきりに四国を懐かしがっていたことが、お遍路に来る動機の一つになっています。私の遍路旅の衣類は父の遺物でした。

 八坂寺から次の西林寺までは約5km。農村地帯を進みます。また衛門三郎がいました。彼の家の跡が別格霊場文殊院になっています。これは文殊院にある衛門三郎の像です。改心して空海を追って旅立とうとするところですが、強欲で意地悪な豪族だった頃の面影を残しています。なお、この話には奥さんは出てきません。今は女性の遍路も多いので女性像を追加したのだと思います。

 これは遍路道の途中にある番外霊場 札始め大師堂の内部。空海がここにあったお堂を仮宿としていて、旅立った衛門三郎がまず最初に訪れた所とされています。

 八坂寺から番外霊場2ヵ所立ち寄りながら1時間半ほど歩き48番 西林寺に到着。このあたりは市街地です。

 

 ここから久米駅を目指して歩きます。49番 浄土寺は駅の近くです。

 

 だいたい昼頃になったので一休み。ベンチのはじでカマキリが日光浴中でした。この季節はよくカマキリが道路の上などでじっとしていて踏み潰されるなど事故にあっています。このカマキリは私の肩の上に乗ってきました。少し離れたところに払い落としました。11月なのに桜が咲いていました。この旅では桜の花を3か所で見ました。

  

 近くのラーメン屋で昼食をとった後、30分ほど歩いて50番 繁多寺に到着。市街地で若干道に迷いました。

 51番 石出寺は道後温泉に近いこともあって、人出も多く、大きな寺です。

 門前に土産物屋のアーケードがあります。2軒しか店を開けていませんでした。天井に絵馬が多数。こんなアーケードのある寺は多分ここだけではないかと思います。

 アーケードを抜けたところにある仁王門は鎌倉時代に作られた豪壮なもので、国宝に指定されています。しかし、なんか国宝らしい扱いをされていないような。

 51番石出寺の境内です。三重の塔があったり規模が大きい。

 この寺 石出寺が今日の最終目的地なのですが、ここで衛門三郎の登場です。左は衛門三郎が生まれ変わった時に握っていた石。寺宝として展示されています。この石が石出寺の名前の由来だそうです。右は衛門三郎の像。土下座して謝罪を乞うています。

 

 参拝の後、道後温泉に行き、入浴しようとしましたが、本館は4時間待ち。仕方ないので別館飛鳥の湯に入りました。入浴料720円。ちなみに本館は420円です。

この日は3万歩 約25kmでした。長くなったので、ここで一度切ります。

 

参考:以下は 四国お遍路ネットからのコピペです。

衛門三郎の伝説
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。
三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。

以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。
弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。
その石はお寺に納められ、今も大事に祀られています。