旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第17回 四国お遍路 愛媛編・後編

 5日目 道後温泉を出発。山頭火の終の棲家を通って、今治

 夜明け頃 道後温泉駅に到着。遍路道はまず商店街アーケードから始まります。市街地を歩いていくと、種田山頭火の住んでいた一草庵があります。

「落ちついて死ねさうな草萌える」

 山頭火直筆と思われる色紙がありました。

 山頭火の享年は57歳だったそうです。今の私よりだいぶ若い。辞世の句は「もりもり盛り上がる雲へ歩む」。最後まで漂泊の詩人でした。

 毎日のように感動があるお遍路の旅は素晴らしいです。住宅地の中を進んでいくと丘の森の中に番外霊場 蓮華寺があります。

 蓮華寺からさらに5km 52番太山寺につきます。ただし、門から本堂まで700mもある。本堂に上がる石段の前の空間が石仏がいっぱいあって、なかなかの雰囲気です。

 太山寺本堂は国宝指定です。

 53番圓名寺(えんみょうじ) 52番から3kmほどです。

 圓名寺にはキリシタン灯篭と呼ばれる石碑があります。頭部が十字架に見えないこともないし、浮彫が聖母マリアに見えないこともない。寺が隠れキリシタンを黙認していたとの伝承があるので、そうなのでしょう。

 ここから伊予和気駅へ行き、大西駅まで列車で30分。駅裏に1軒だけあるラーメン屋で食事してから延命寺に向かいます。食事の場所などはGoogle Mapで下調べ済。狭い道を車をよけながら歩いて1時間。54番延命寺に着きます。日曜だったので参拝客が多く観光バスが駐車に苦労して渋滞していました。 

 田舎道を降りて行って最終的には今治の市街地を歩きます。55番 南光坊は市内の真ん中にあります。両隣が神社で寺町のような場所でした。本尊は大通智勝如来というあまり聞かない如来です。調べたら釈迦如来阿弥陀如来の前世の親だった方だそうです。釈迦は歴史上実在の人物とされていますが、阿弥陀如来も人間だった時代があるとは知りませんでした。

 門は仁王ではなく四天王が守っていました。立派な像でしたが写真を取り損ないました。これで今日はおしまい。36000歩 30kmでした。

6日目 今治市街地から郊外へ

 この日は少しゆっくりスタート。今治駅前の直線の道を通勤・通学の人々とすれ違いながら進みます。56番 泰山寺には9時前に到着。既に多数のお遍路が参拝中でした。

 すぐ近くに泰山寺奥の院である番外霊場 龍泉寺があります。ここの名物は正面に掲げられた鏝絵(こてえ)で、左官屋さんが鏝(こて)だけで漆喰を盛って作った名人芸です。

 

ここから今治の市街地を抜けていきますが、迷路のようで大変でした。こんな路地が遍路道です。電子柱に張り付けた矢印が道標です。

 

 また遍路の墓がありました。合掌して先に進みます。

 57番 永福寺です。ここまで来ると郊外になります。

 仙遊寺に向かう道は登りです。振り返って見た今治市街と海峡第2大橋。

 58番 仙遊寺は仁王門を抜けてからも急坂です。たくさんの石仏が見守る中を登って行きます。 

 58番 仙遊寺に着きました。

 仙遊寺から眺めた瀬戸内海。

 ここから海の方へ下っていきます。最初は五郎兵衛坂と呼ばれる急坂です。次の国分寺まで7kmもあります。
 59番 国分寺に着いたのは14:00頃でした。88ヵ所の中に国分寺は4ヵ所あります。飛鳥時代に国家事業として建立されたのが始まりですので大きな寺が多いのですが、この国分寺はやや小規模でした。

 この日は伊予桜井駅まで歩きました。この駅にて韓国人の中高年夫婦と会話しました。これまでも私と同じようなペースで歩いていたので既に顔なじみになっていました。彼らは日本語はほとんど話せず、カタコトの英語で会話することになりました。やはり明日は私と同様に横峰寺に行くつもりとのことでしたが、彼らの計画は伊予小松駅からの直登というハードなものだったので、私は伊予西条駅からバスで登山口へ向かうコースを強く勧めました。というわけでなぜかガイド役をやることになりました。この日は伊予西条駅にて投宿。韓国人カップルは宿の予約は取らずその場で決めるという無謀なやり方でした。しかし、1番から59番までともかく来ているのでなんとかなるようです。この日は26000歩 21kmでした。このくらいに抑えるのが楽です。

 7日目 韓国人夫婦と共に石槌山を眺め讃岐街道を東へ

 バス停で昨日会った韓国人夫婦を合流。まずはアンニョンハセヨです。バスで横峯登山口へ。乗客はお遍路が10人ほど。登山口から横峰寺までの登山バスは不定期です。今日は動くということで、これに乗ることにしました。韓国人夫婦は歩くことを主目的としているようで、なんか不満そうでしたが、もう70歳近いということでバス使用をstrongly recommendして乗りました。登山バスが動かないことも想定していたので、これは楽できました。

 60番 横峰寺です。狭い空間にギシギシ建っています。

 私が本当に行きたかったのは、横峰寺奥の院でもある 番外霊場 星が森でした。前回来た時の石鎚山の光景が忘れられません。今回は残念ながら山は雲の中でした。一瞬山頂が見えたところを撮りました。

 この写真は2019年1月 前回来た時のものです。役行者(えんのぎょうじゃ。飛鳥時代に実在した山岳宗教・修験道創始者)が山頂に蔵王権現が降臨するのを見たとの伝説があります。

 星が森から山道をひたすら下ります。路線バスと登山バス2本乗って登ってきた分を下らなければなりません。

 11時頃 61番 香園寺(こうおんじ)の奥の院到着。奥の院の建屋はありますが、本当の奥の院は白滝と呼ばれるこの小さな滝です。仏教と修験道神道と入り混じった感じです。

 61番 香園寺 はコンクリート製の寺です。中には巨大な大日如来があります。

 香園寺は安産祈願の寺として有名だそうです。寺の壁には安産の証拠として赤ん坊の写真がたくさん貼ってありました。お産は今でもリスクが高く神頼みもしたいでしょうし、安産祈願とお礼参りと2回来るわけで、ビジネスとしてはいいところを突いていると思いました。ここで軽くおにぎりで昼食。

 ここから讃岐街道を東へ進みます。62番 宝寿寺。小さなお寺でした。なぜか風鈴がたくさん。

 63番 吉祥寺 本堂は工事中でした。門前の象の石像が面白い。

 

 64番 前神寺(まえがみじ) これは立派なお寺でした。修験道の本山だそうです。宗徒80万と書いてありました。山伏はそんなにいるのしょうか。回廊があるお寺は珍しい。

 この寺は以前は現在石鎚神社がある場所にあったそうですが、廃仏毀釈で廃寺となり場所を奪われてしまった。そして、現在この場所に再興したそうです。

 不動明王。ミズゴケがびっしり生えていて、白い点々に見えるのは1円硬貨です。5円や100円もあります。硬貨を投げて張り付くと縁起がいいそうです。

 ここで韓国人夫婦と別れました。彼らは伊予西条まで20kmほどを歩きたいとのこと。2日行程を覚悟していたところを、私のガイドにより1日で完了したので感謝してくれました。カンサムニダ アンニョンヒカセヨでした。私は石鎚山駅から1駅ですが列車で伊予西条に戻りました。西日さす石鎚山駅です。もちろん無人駅です。切符販売機は無く、トイレはありますが水洗ではありません。この日は15000歩。約13km 登山バスのおかげでそんなに歩かずに済みました。

 8日目 最終日 三角寺

 夜明け前にホテルを出て朝1番の特急で伊予三島へ。列車に乗っている間に日が昇りました。伊予三島駅から三角寺までの道は迷いやすいので注意して進みます。前回は迷ってかなり遠回りしました。慎重だったのと幸運で今回は迷わず行けました。

 61番 三角寺本堂です。

 本堂裏の石仏群。すべて千手観音でした。

 三角寺境内に桜が咲いていました。今回 3か所目です。その根元にあった大型の苔。

 

  参拝の後 来た道を戻り 伊予三島駅には昼前に着き、帰宅しました。この日は25000歩 約20kmでした。来月 12月は最後の香川県に行くつもりです。今回の旅は天候にも恵まれ、素晴らしい旅でした。

 ところが帰りの新幹線の中で咳が止まらず、夜になって37.5度の微熱ながら発熱あり。翌日 発熱外来を探して病院に行って診察を受けた所、コロナ陽性と診断されました。今 8日間の隔離期間中です。看護婦さんから「お年ですから気をつけて」と言われてしまいました。幸い 重症化せず、熱も下がりました。来月のお遍路・香川編は何とか行きたいのですが、未定です。

 

第16回 四国お遍路 愛媛編・前編

1日目 宇和島に到着。ここから先に線路はありません。

 2回目の遍路旅は愛媛県に入りました。宇和島に着いたのは午後3時前。

 

 まず、宇和島の鎮守 和霊神社に向かいました。祭神は宇和島藩家老だった山家公頼という実在の人物です。無実の罪で殺され、その後関係者が次々と死んだので怨霊の祟りと恐れた人々が神社を作って鎮魂した。菅原道真の話に似ています。今では七五三のお祓いも受け付ける優しい神様になっています。

 

 近くに多賀神社という小さな神社があったので行ってみました。ところが、これがなかなかのエロエロ神社で中に博物館があり、よくぞ集めた感心するスケベ品が並んでいます。ギリシャレスリングを描いた土器など性器が必要以上に強調してあって大笑いです。歴史の風格の点で秘宝館よりも上かもしれません。ほとんど人はいません。

 宇和島市内には別格霊場龍光院」があります。ちょうどバスで来たお遍路の団体と遭遇しました。

 龍光院から見た宇和島城天守閣です。大きくはありませんが、江戸時代に作られた貴重な本物です。

 特に申請していませんでしたが、全国旅行支援が適用され、ホテルから2000円の現金と3000円分のクーポン券をもらいました。クーポン券は地域・日付限定なのでさっそくそのホテルで和牛ステーキに使ってしまいました。上々のスタートでした。なお、この支援の適用にはコロナワクチン接種証明書が必要です。旅行には持って歩くべきです。

 2日目 三間(みま)盆地から卯之町

 JR予土線で務田(むでん)駅へ向かいます。超ローカル線で2時間に1本程度しかありません。ホームで待っていたのはホビートレインという珍列車でした。先頭は新幹線の初期の型に似せてあり、ご丁寧に社内の掲示には名古屋・新大阪などの地名があります。1両編成のワンマン列車です。乗客はお遍路4人と中高生が10人ほど。

 

 務田(むでん)駅で降りて、少し遠回りですが旧遍路道の「窓の峠」を歩いてみました。遍路道を歩いていつも感動するのはゴミが落ちていないことです。ところが、この道はゴミだらけでした。もう遍路道とは認知されていないのかもしれません。

 

 旧遍路道はすぐに車道に合流してあとは朝もやの中を1時間ほど歩きます。正面の鳥居は稲荷神社のもので目指す41番龍光寺はこの左隣です。ここも寺と神社がペアになっています。朝早いのに遍路が何人か来ていました。ほとんどがバスか自動車です。

 

 42番佛木寺までは約1時間。この区間は山中を歩きます。高低差はそれほどありません。寺から眺めると朝霧が雲海のようでした。

 

 佛木寺名物の茅葺きの鐘楼です。お寺のご接待で抹茶と和菓子をごちそうになりました。抹茶など20年ぶりかもしれません。そこでここから立間駅まで歩き列車で卯之町まで行って次の明石(あけいし)寺まで行くつもりだと話したところ直接歩くことを勧められました。13~14kmだそうです。まだ10時だったので行けると判断しました。右は帰り際に振り返って見た佛木寺の山門です。

 

 佛木寺明石寺遍路道は2018年の西日本豪雨の地滑りで閉鎖されていましたが、最近復旧したとのことでした。最初の方は道しるべも完備していて快調でした。

 

 問題の地滑り現場です。このはしごは鎖で固定されています。この下は崖です。カメラなどリュックにしまい込み、両手を使えるようにして四つん這いで登りました。

 道は狭い尾根の上です。足を踏み外すと転落します。足元に集中して登っていきます。この峠は歯長(はなが)峠といい、かっては伊予と土佐を結ぶ街道であり、戦国時代に土佐の長曾我部軍が伊予に攻め込んだルートだそうです。峠を越えたあたりで街が見えました。たぶん卯之町でしょう。

 

 峠を降りたところに遍路の墓がありました。88ヵ所の約半分のところで疲労が蓄積するのでしょう。特に愛媛県は寺と寺との間隔が広いような気がします。

 43番明石(あけいし)寺についたのは14:00頃。列車を使うのとほぼ同じはずです。歯長峠越えの大冒険(私としては)があったのでこの歩き旅は正解でした。前を歩いているお遍路は白人のカップルです。日本語はほとんど話せないようです。それでもお遍路はできるのです。

 この門前で観光バスのお遍路団体とすれ違いました。上から見下ろされるわけですが歩いている私の方が優位でしょう。下は明石寺の本堂と大師堂です。 

 

 明石寺から歩いて卯之町駅に向かいました。卯之町は松山~宇和島の街道の宿場町だったそうで、とても風情があります。特急が止まるのに卯之町駅は無人駅でした。

 卯之町から松山までJR特急で約1時間。その間に札所はありません。この地域は真言宗の空白地帯というわけです。理由はわかりません。十夜ヶ橋(トヨガハシ)という番外霊場があるだけです。ここには前回来た時立ち寄りました。空海が泊るところが無く10日過ごしたという橋です。今はコンクリート製になっています。それよりも全部歩く遍路たちにとってこの区間は難路でしょう。それに次の44番大寶寺は久万(くま)高原の山中にあります。この日は約36000歩、30kmの行程でした。

 3日目 久万(くま)高原にて森の寺 大寶寺から岩の寺 岩屋寺

 松山駅前からJRバスの始発で久万高原へ向かいます。乗客はお遍路が10人ほどと中高生です。お遍路2人が折り畳み自転車を持ち込んでいました。

 44番大寶(たいほう)寺はバス停から歩20分ほどのところにあります。前回来た時この寺への入り口でなぜか鳥肌が立ちました。私は霊感など信じるタイプではないのですが、冷気が森から降りてきて右側の渓流から上がってくる蒸気と合流し、静けさの中の鳥の声と水の音、それに路傍の苔むした石仏群、何とも言えない雰囲気があります。ここに来るのは朝がいいと思います。

 

 44番 大寶(たいほう)寺 本堂です。森に包まれた寺でした。ここから森を抜けて45番 岩屋寺に向かいます。  45番 岩屋寺に向かう道は2通りあり。一つは空海が設置したと言われる旧道 八丁坂で、修行のためにわざと難路にしたとの伝説があります。もう一つは新道 県道です。前回来たときは八丁坂への入り口が見つかりませんでした。今回もダメで結局 県道を歩いて到着しました。しかし、そのおかげで古岩屋(ふるいわや)のすばらしい紅葉が見物できました。

 古岩屋は礫岩を川が侵食してできた礫岩峰が連なっている場所です。崖に大きな岩が埋まっていて、丸い岩もあります。丸い岩は川でできるはずなので、その岩が海に流れて堆積してそこが隆起して、また河川に削られてと、複雑な経緯があったはずです。

 なかなかすごい光景でした。

 

 45番岩屋寺も礫岩峰の真下にあります。寺の上の崖はオーバーハングになっていて、いつ岩が落ちてきてもおかしくない状態です。本堂は1927年、大師堂は1920年建立とそれほど古くはありませんが、約100年 落石が無かったことになります。

 少し離れると岩山が本尊というのがよくわかります。この迫力はなかなか写真では表現し切れません。

 岩屋寺の山門です。旧道・八丁坂を来ると、この門に着いたはずです。その道を来れず残念。

 岩屋寺の下からのバスに間に合ったので体力温存のためにバスで下山しました。このバスは1日に3本しかありません。久万高原で少し時間があったので大寶寺にもう一度行って鳥肌の原因を探ってみました。その原因は不明でしたが種田山頭火の句碑を発見しました。「朝まゐりは わたくし一人 銀杏ちりしく」やはりこの寺は朝がいいようです。この日は32000歩 26kmでした。

4日目 最初のお遍路 衛門三郎の足跡をたどる。

 昨日と同じ久万高原行きのJR四国バスに乗り、途中の塩の森で下車。ここから下り坂を46番浄瑠璃寺に向かいます。ところがここでまた旧道を見失い、新道を降りることになりました。結果的には早く着きましたが面白みには欠ける旅になりました。またまた残念。写真は塩の森のバス停からの風景です。三坂峠と呼ばれています。

 途中のため池の上を漂う朝もや。鴨が数羽いました。

 三坂峠から浄瑠璃寺への下り坂は難路と聞いていたので、ゆっくりした時間割を考えていましたが、新道の舗装道路を快調に駆け下りたので予定より1時間早く着いてしまいました。46番浄瑠璃寺の本堂です。

 浄瑠璃寺の名物 イブキビャクシンの大木。空海のお手植えとされ樹齢千年と言われる霊木です。

 浄瑠璃寺の門前にあった正岡子規の句碑。ここから今日一日 最初のお遍路 衛門三郎の足跡を辿る旅になりました。「永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺

 47番八坂寺は46番浄瑠璃寺から約1kmのところにあります。

 八坂寺にも句碑がありました。私の場合、不仕合(ふしあわせ)とは言えないと思うのですが、昨年父が百歳で亡くなり、彼が子供のころ徳島に短期間ですが住んでいてしきりに四国を懐かしがっていたことが、お遍路に来る動機の一つになっています。私の遍路旅の衣類は父の遺物でした。

 八坂寺から次の西林寺までは約5km。農村地帯を進みます。また衛門三郎がいました。彼の家の跡が別格霊場文殊院になっています。これは文殊院にある衛門三郎の像です。改心して空海を追って旅立とうとするところですが、強欲で意地悪な豪族だった頃の面影を残しています。なお、この話には奥さんは出てきません。今は女性の遍路も多いので女性像を追加したのだと思います。

 これは遍路道の途中にある番外霊場 札始め大師堂の内部。空海がここにあったお堂を仮宿としていて、旅立った衛門三郎がまず最初に訪れた所とされています。

 八坂寺から番外霊場2ヵ所立ち寄りながら1時間半ほど歩き48番 西林寺に到着。このあたりは市街地です。

 

 ここから久米駅を目指して歩きます。49番 浄土寺は駅の近くです。

 

 だいたい昼頃になったので一休み。ベンチのはじでカマキリが日光浴中でした。この季節はよくカマキリが道路の上などでじっとしていて踏み潰されるなど事故にあっています。このカマキリは私の肩の上に乗ってきました。少し離れたところに払い落としました。11月なのに桜が咲いていました。この旅では桜の花を3か所で見ました。

  

 近くのラーメン屋で昼食をとった後、30分ほど歩いて50番 繁多寺に到着。市街地で若干道に迷いました。

 51番 石出寺は道後温泉に近いこともあって、人出も多く、大きな寺です。

 門前に土産物屋のアーケードがあります。2軒しか店を開けていませんでした。天井に絵馬が多数。こんなアーケードのある寺は多分ここだけではないかと思います。

 アーケードを抜けたところにある仁王門は鎌倉時代に作られた豪壮なもので、国宝に指定されています。しかし、なんか国宝らしい扱いをされていないような。

 51番石出寺の境内です。三重の塔があったり規模が大きい。

 この寺 石出寺が今日の最終目的地なのですが、ここで衛門三郎の登場です。左は衛門三郎が生まれ変わった時に握っていた石。寺宝として展示されています。この石が石出寺の名前の由来だそうです。右は衛門三郎の像。土下座して謝罪を乞うています。

 

 参拝の後、道後温泉に行き、入浴しようとしましたが、本館は4時間待ち。仕方ないので別館飛鳥の湯に入りました。入浴料720円。ちなみに本館は420円です。

この日は3万歩 約25kmでした。長くなったので、ここで一度切ります。

 

参考:以下は 四国お遍路ネットからのコピペです。

衛門三郎の伝説
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。
三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。

以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。
弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親がお寺へ連れて行き祈祷してもらうと、そこから「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。
その石はお寺に納められ、今も大事に祀られています。

 

第15回 安房小湊の誕生寺から房総最高峰の清澄山まで歩く

 前回の中山道歩きではトレーニング不足で苦しんだので、足の裏を鍛えるために少しハードに歩きました。

 安房小湊駅に着いたのが8時16分。そこから日蓮上人の出生地に建つ誕生寺を目指します。約20分くらいです。

 

 寺の縁起に関する掲示に興味深い記述がありました。寺の創建は1276年。今から746年前です。その後 1498年に津波で全壊。さらに1703年にも津波で大被害を受けています。つまり約750年間に津波が2回あったということです。1回目と2回目は約200年間隔でした。それから300年以上 この地では津波はありません。海岸沿いは要注意です。

 誕生寺からほぼ海岸沿いに国道を天津駅まで歩き、そこから登り始めます。山道は見つかりませんでした。内陸から登る登山道はあるようです。今回は車道を歩きます。一部を除いて歩道はしっかりしていますので、危険はありません。むしろ、海岸沿いの国道の方が狭くて危ない。

 途中にこんな田舎道には不釣り合いな巨大建造物・ループ橋が出来ていました。清澄山山頂近くには日蓮宗の寺、清澄寺(せいちょうじ)があります。日蓮宗の政治力を感じましたが、考えすぎでしょうか?

 途中に波切不動という真言宗の小さなお寺があります。この石仏が名物らしいですが残念ながら保存状態が良くない。しかし、この地域ではこのような石は採れません。どこから運んできたか興味あるところです。小さな番犬にワンワン吠えられて退散しました。

天津駅から登り始めて約2時間で清澄寺(せいちょうじ)に着きます。寺と山は同じ名前ですが読み方が違います。

 この寺は最初は天台宗の寺として創建され、次に真言宗に代わり、明治の廃仏毀釈により廃寺の危機にあったものを日蓮宗に改宗して存続できたと掲示がありました。またしても日蓮宗の政治力です。

 本堂の裏にあった石仏。私見ですが手印の形から向こうが大日如来、手前は阿弥陀如来と思われます。日蓮宗に改宗する前のものでしょう。この石仏の石も遠くから運んできたものと思われます。

 清澄山山頂への登山口はこの石仏の近くにあります。これまで車道をゆるゆると登ってきましたが、ここは急登です。距離はそれほどでもなく15分ほどで山頂に着きます。

 ここが清澄山の山頂。千葉県で最も高い所です。といっても377m。東京タワーより高いがスカイツリーよりも低い。この社は妙見宮です。妙見とは北斗七星のことで、別名はアメノミナカヌシ、古事記の最初に出てくる神様です。1回だけ出てきて記述がほとんどない謎の神です。妙見信仰は全国各地にあります。古事記日本書紀の神様体系に組み込まれなかった神様と思われます。

 帰りは車道をそのまま下って安房天津駅から帰りました。この駅は無人駅になっていました。房総も南の方に来ると無人駅ばかりになります。切符の販売機もありません。しかし、トイレはきれいでした。線路が単線なのでここで上り下りがここですれ違うようになっていて、同じ時間に両方向から列車が入って来ます。上りも下りも1時間に1本しかありません。

 この日は約3万歩(26km相当)歩きました。疲れましたが、特に足に異常は無し。来週は四国お遍路 愛媛編に向かいます。

第14回 3年がかりの中山道 やっとゴール

 2019年12月に東京・日本橋を出発して、途中中断などあって3年がかりになりましたが、やっと京都・三条大橋に到着できました。今回の経路概略です。私の経験からGoogle Mapの距離・時間表示は実際より短めに出る傾向があります。これよりも余裕をもって計画を立てなければなりません。

 車であれば10~20kmの誤差は大したことではありませんが、歩き旅ではオオゴトです。

1日目 醒ヶ井(サメガイ)宿から愛知川(エチガワ)宿まで 

 米原駅で乗り継ぎのホーム番線を間違えて予定の列車に乗り遅れ、次の列車まで誰もいないホームで45分も待つことになりました。

 醒ヶ井宿は清流に沿って宿場が並んでいる美しい宿場町です。奈良井宿妻籠宿、馬籠宿などと並んで中山道の宿場町のトップグループに入ると思います。

 醒ヶ井出発は11時頃。ここから中山道は国道と合流したり分岐したりしながら進みます。この国道が曲者で歩道が無いところがかなりあり、大型車両が来ると接触しそうで怖い。下の写真は番場宿を過ぎたあたりで旧道に入り後ろを振り向いたところ。正面は武甲山、右の土手は名神高速です。こういうところなら問題なく歩けるが、そうでないところの方が多い。

 暑さは想定外でした。2,3日前まで12月並みの寒さだったのが、この日は30度を越え、この温度変化に体がついて行きません。そのうえトレーニング不足がたたって足の裏に水ぶくれができました。靴擦れではありません。スロージョギングとウォーキングで調整してきましたが、30km程度の長距離歩きで足の裏を鍛えておくべきでした。今更反省しても遅い。一歩一歩が痛くて、汗が流れて目に沁みる悲惨な旅になりました。

 鳥居本(トリイモト)宿の手前で琵琶湖が見えます。かっては望湖楼という大きな茶屋があったそうです。中山道で琵琶湖が見えるのはここと大津の瀬田の唐橋くらいです。

 鳥居本宿のシンボル 赤玉神教丸の製造販売所。下痢・食あたりの薬だそうで、今でもこの家の裏で製造しているとのこと。GMP(Good Manufacturing Practice)の厳しいルールなど医薬品の承認制度を漢方薬・生薬でクリアするのは相当大変だったと思います。建屋はとても立派なものでした。

 この日の午後は単調なほぼ直線コースです。とにかく暑かった。

 愛知川(エチガワ)宿に着いたのは16時過ぎでした。歩数は約36000歩。距離にして約30kmでした。愛知川駅から彦根駅まで列車で移動し駅前のビジネスホテルに投宿。シャワーとビールが有難かった。

 2日目 愛知川から草津まで

 彦根駅発の始発6:13で愛知川へ移動。そこから歩き始めましたが、足裏の痛みは最初からひどく、この日は難行苦行になりました。立派なゲートがありますが古い家並みはそれほど残っていません。

 愛知川の川岸に立つ睨み灯篭。江戸時代はここに橋は無く、歩いて渡る時の目印にしたとのこと。川の両岸にあります。

 途中にあった伊勢道との分岐点。見たところ伊勢に向かう道は新幹線や高速道路で分断されており、この道をたどるのは難しそうでした。

 武佐(ムサ)宿の手前にある奥石(オイソ)神社です。背後の森は老蘇(オイソ)の森という神域です。神社と森と名前は同じなのに字が違います。祭神は天見屋根命(アメノコヤネノミコト)。

 神道の神は八百万(ヤオヨロズ)と言われるほどたくさんいますが、大きく分けると国津神(日本古来の神、オオクニヌシなど)と天津神高天原から来た神、アマテラスなど)に分かれます。この神社の神様は天津神藤原氏の祖先神だそうです。

 下は若宮神社。奥石神社から500mくらいのところにあります。奥石神社の関連です。

 関西に来ると神社の神様がその土地特有の神様になるようです。天神様や八幡様ばかりの関東とは様子が違います。

 神話には実在のモデルがいたのではないかと思います。アマテラスの弟で暴れん坊のスサノオ国津神でありながら天津神の道案内をした裏切り者の猿田彦タケミカヅチに相撲で負けて降伏した諏訪の神タケミナカタなどとても人間臭い。ただし、ヤマトタケルのように複数のモデルを合体させて一体にしているようで、それが彼らの性格を分かりにくくしています。あくまでも私見です。

 武佐(ムサ)宿です。まだ10時前です。行程の1/3しか進んでいません。

 武佐宿と守山宿の間にある鏡(カガミ)宿にある鏡神社です。この宿は宿場間の間隔が長すぎるために作られた合いの宿です。鏡神社の祭神は天日槍(アメヒノホコ)。新羅の王子で実在の人物が神格化されたものとされています。新羅の人々がこの地に来て陶器を作っていたとの記録があります。このように国津神でも天津神でもない神様もいます。

 また、鏡集落には義経伝説がたくさんあります。鏡神社も義経が源氏再興の願をかけた場所とされていますし、元服したとされる場所も近くにあります。

 武佐を過ぎて守山宿~草津宿までは旧道を進みますが、幅が狭いのに車の往来が非常に多く、しかも時々自転車が来るので、それらを避けながら歩くとなかなか前へ進みません。午後になって暑いし、足は痛いしで、アメリカ国境に押し寄せた中米の難民の気持ちを想像しました。しかし、私はゴールできればシャワーもあるしビールもあるし冷房の効いた部屋もある。それらが無かったら本当に地獄だろうなどと考えながら歩いていました。

 下の写真は今宿の一里塚です。ちゃんとした形で残っていました。ただし、本当は道の両側にあったはずですが、残っているのは片方だけでした。

 草津市内に入ると道は迷路のようになります。しかし、中山道が迷路だったはずはなく、新しく作られた線路や道路で分断された結果、迷路になっているのです。

 草津市内のホテルに投宿。歩数は約48000歩。距離は約40kmでした。こんなハードなスケジュールは立てたくないのですが、日数を短くして旅費を節約しようとするドケチ精神が災いしています。

 3日目 草津から京都までそしてゴール

 当初の計画ではゆっくり出発して大津で泊まり、翌日京都まで歩くはずでした。ところが翌日の天気予報が雨でした。そこで、またしても無理して一日で京都まで歩いてしまうことにして夜明け前に出発しました。

 草津市内に小汐井(オシオイ)神社。夜明け前なので社殿内に点灯していました。

 草津市内にある中山道東海道の合流地点。まっすぐトンネルをくぐってくるのが中山道、右から入ってくるのが東海道。ここから先は東海道になります。中山道はここで終わりなので、ここでやめようかと誘惑にかられますが、意地で前に進みます。

 草津市内にある立木神社。祭神は鹿島の神であるタケミカヅチです。この神は奈良の春日大社の神でもあります。古事記では天津神として日本平定のために戦った武神になっていますが、おそらくは利根川河口付近に住む縄文人の神ではなかったのでしょうか。これも私見です。

  迷路を通り抜け瀬田の唐橋を渡り大津市に入りました。瀬田川に架かる橋ですが、右側はすぐ琵琶湖です。ちょうど渡り鳥が通過中でした。

 大津市内もまた迷路でした。下の写真は大津市内の和田神社。祭神はタカオカミノカミ。すごく難しい字なので漢字は省略。京都の貴船神社の神様でもあり、水神のようです。 

 この写真は石坐(イワイ)神社。祭神がたくさんいて海神豊玉比古(ワダツミトヨタマヒコ)が古いようだが、八大龍王天智天皇も祭っています。なお、天智天皇の陵墓は大津の隣の山科にあります。

 大津宿の風景。ちょっとだけ宿場町の雰囲気が残っています。この近くに大津事件の碑がありました。1891年(明治24年)に来日中のロシア皇太子が日本の警察官に切られて重傷を負うという大事件で、その頃は日本はロシアと戦争する国力は無く、天皇まで見舞いに来たそうです。

 大津の市街地を抜けて京都盆地へ入る「小関越え」です。この道は裏道です。表道は「逢坂越え」で国道一号線が通っています。今度こそ最後の峠越えです。

 小関越えを越えて山科を過ぎて旧東海道が少しありますが、だいたいは三条大通りを行きます。ゴールの前に少しだけ京都観光をすることにして三条大橋に近い南禅寺に向かいました。三条大通りにある「ねじりまんぼ」です。「まんぼ」とはトンネルのこと、「ねじり」とはレンガが渦巻き状に積んであることからこの名前が付けられています。ここが南禅寺への近道でした。前を歩いているのは観光客です。貸衣装の和服で京都を歩くのがトレンドらしい。

 南禅寺の大門です。石川五右衛門がこの上から「絶景かな、絶景かな」と叫んだとされる巨大な建造物です。

 南禅寺本堂です。これも巨大です。日曜日だったこともあり観光客が大勢いました。白人のグループツアーも何組かいました。

 南禅寺にある琵琶湖疎水の水道橋。出来た当初は違和感があったかもしれませんが、今はここの庭園になじんでいるように感じました。

 ここがゴールの三条大橋です。残念ながら工事中でした。

 三条大橋についた刀傷。新選組池田屋騒動の時につけられたそうです。誰がやったのかはわかりません。

 ここから京都駅まで歩く計画でしたが、足が痛すぎて断念。京阪三条駅から列車に乗りました。この日は約45000歩 約37kmでした。

 中山道歩きは最初と最後に大変苦しみました。実は最初の日本橋~高崎間は足のダメージが今回よりひどくて、中山道とJR高崎線がほぼ平行していることをいいことに、何回も列車に乗ってしまいました。ここは将来歩き直したいと考えています。また、ポイントを選んで「2回目の中山道」を考えています。その時は全部歩くことにこだわらずに列車・バスを活用して歩く距離を1日20km程度に抑えたいと思います。

 めげずに歩き旅を頑張ります。来月は四国お遍路 後半の部 愛媛編です。

第13回 フランスの古都リヨンとブルゴーニュ地方を歩く。

 この回は2019年の8月、まだ新型コロナが蔓延する前の旅の記録です。

 私は40代から50代前半の頃は ほぼ2か月に一回は海外出張をするような仕事をしていました。出張ですからせいぜい1カ所に1~2泊して次の目的地に向かうような忙しい旅でした。引退したら出張経験から印象の良かったところへカミサンを連れて行ってみたいとNostalgic Tour計画と称していろいろ考えていて、まずは最も出張回数の多かったリヨンへ行ってみました。もちろんその後の計画は新型コロナとウクライナ戦争で頓挫しております。

 オーバーツアリズムで大混雑のパリで財布をすられる 

 まず、パリに2泊しました。私はパリには10回以上来ていますが、最後に来たのは10年以上前です。これほど混雑したパリは見たことがありません。オーバーツアリズムは世界的現象で、日本だけがインバウンド旅行客で賑わっていたわけではありません。ルーブル美術館も大行列で、予約が無ければその行列に並ぶことさえできません。スリ・かっぱらいもたくさんいて、なんと私も財布をやられました。現金だけ抜いてクレジットカードはそのままでした。神技でした。海外出張のベテランのはずが衰えました。情けない話です。

 ホテルも観光客用レストラン(ビストロ)も昔より品質が落ちていました。宿泊したホテル・ノルマンディーは、ブティック街のサントノーレ通りに面していて、ルーブル美術館まで徒歩5分という抜群の立地条件だったので、これまで何回も利用していました。ところが、この10年で設備は劣化し、シャワーは出ない、エアコンは効かない、日除けのシャッターは蝶番が壊れて斜めになっている。そのくせ一丁前の料金を取る。最悪でした。何もしなくても客はたくさん来るのではサービスする気にならないのでしょう。

 パリにて「モネの睡蓮」に感動する

 そんなパリでほとんど唯一の成果が念願だった「モネの睡蓮」を見ることができたことです。パリの中心部チュイルリー公園の西の端にオランジュリー美術館という小さな美術館があります。この地下1階の壁が全て「モネの睡蓮」です。モネは睡蓮の絵をたくさん描いていて日本にも何枚かありますが、この睡蓮は他とは全く違います。モネは晩年白内障で視力をほとんど失っています。この睡蓮は目が弱った老画家による遺作なのです。8枚の大きな絵が1日の光の移ろいを表現しています。

 特に最後の日没後の水面に浮かぶ水連は、もはや花の形はしていません。ここに30分ほど座り込んでいました。

 ルーブルもオルセーも素晴らしいですが、パリに行く機会があったら是非時間を作ってオランジュリーに行ってください。

 早々に大混雑のパリを出てリヨンに向かいました。写真はリヨン駅。と言ってもパリにある駅です。すごく立派です。リヨン行TGV(新幹線)がここから出ます。


 最初の海外出張がリヨンだった。1985年。

 秋だったと思います。明日一人で外人相手に打合せをしなければならない不安と緊張の中で夕暮れのリヨンの街をとぼとぼ歩いていました。何しろ海外は初めてだったので私の脳にある種の刷り込みがあったのだと思います。後年 かっての上司から「お前はヨーロッパが好きすぎるのでヨーロッパ駐在にはしなかったのだ。」と聞かされました。

 古都リヨンの半日コース ① 朝市

 その後 何回もリヨンに来る中で、海外出張初心者をサポートすることもありました。仕事なので観光する時間は限られています。そこで朝少し早く起きてもらってソーヌ川の川縁の朝市に連れて行きました。たいていの方は感動してくれます。ほとんどの場合、観光はこれだけでした。

 

 もう少し時間があればソーヌ川を渡ってもっと古い地区へ行けます。

半日コース ②ローマ帝国の遺跡群
 朝市の場所からソーヌ川を渡り、教会の方に行くとケーブルカーがあり、それに乗ってフルビエールの丘に登ります。リヨンはローマ帝国の衛星都市であり、当時ガリアと呼ばれていたこの地域の支配拠点でした。その頃の都市はこの高台にありました。当時はローヌ川とソーヌ川が暴れ川なので低地には住めなかったのではないかと思われます。

 まだ劇場の遺跡が残っていて演劇やコンサートに使用されています。丁度 公演の準備中でした。たいていの人は連れてきただけで感動してくれます。このようなローマの劇場はヨーロッパの各地に残っていて皆ローマの方角を向いているそうです。

 半日コース ③ 世界遺産地区

 またケーブルカーで降りると丘のふもとが世界遺産地区です。実はこの地区には何回か来ていたのですが、どこが遺産地区なのかわかりませんでした。なぜなら薄汚い建物群があるだけだったからです。今回わかったのですがその薄汚い建物が世界遺産でした。これらは400~500年前の建造物です。

 王宮や城郭や貴族の館は今も残っている場合が多いのですが、庶民の生活の場がそのまま残されていることは極めて珍しい。日本でも江戸時代の農家が保存されている例は、私の知る限り1~2例しかありません。昔は庶民の家には遺産とする価値は無いと思われていたのです。フランスが庶民・商人の住んでいた建物を遺産とすることを推薦したことは先進的だと思います。

 美食の街 リヨン

 フランス人は外食が好きです。特にリヨンには食べることを楽しむ文化があります。食堂の呼び名はグレードによって上からレストラン、ブッション、ビストロなどに分かれます。パリでは主にビストロで食べていました。ブッションはリヨン特有の呼び名らしく、ビストロより少し格上のイメージです。

  昼食に旧市街を離れて新市街にあるポール・ボキューズ市場に行ってみました。ポール・ボキューズは伝説の料理人で既に故人です。人間国宝のような存在でした。

 中には食料品店がたくさんあります。ハム屋、チーズ屋などの前にはイスとテーブルがあって、ハムやチーズを切ってパンとワインも付けて出していました。このあたりはビジネス街なのでサラリーマンが昼飯に来ていました。栄養は偏っていますが、ものすごくうまそうでした。しかし、注文の仕方がわからない。残念ながらフランス語ができないと楽しめない世界でした。ここでクネル屋で昼食にしました。クネルとはリヨン名物で魚のすり身を蒸して固めたもので、日本のはんぺんによく似ています。正直言っておいしくなかった。醤油とわさびの方が合うでしょう。なお、ブラタモリがリヨンに来ていますが、その時タモリが立ち寄った店がここです。彼も「珍しい」とは言ったが「おいしい」とは言わなかった。

 写真はマロニエ通りです。このように街にはブッション(食堂)が集まっている通りが何本かあり、客はぶらぶら歩きながらどこに入るか決めるようです。メニューは値段付きで外に出ています。しかし、どんな料理が出てくるか、フランス人でもわからないようです。

 以前はカエルとか臓物料理とかゲテモノ系がありました。今回見た限り、ゲテモノ系は見つかりませんでした。

 リヨンには3泊しましたが、そのうち2晩はこのマロニエ通りにしました。デザートは全てサンマルセランというリヨンの柔らかいチーズにしました。これをパンに塗って赤ワインに合わせるとたまりません。これらは日本でも入手できます。しかし、フランスで食べる味が出ません。たぶん、主に空気の湿度の問題だと思います。

 1晩だけはレストランにしました。Chez Moss(料理人のモスさん)という魚料理の店です。値段はブッションの2倍くらいです。写真はこのレストランのホームページから取ったものです。欧米では料理の写真を撮ることはマナー違反で恥ずかしい行為とされます。日本人は案外これを知りません。

Strepitoso !!!

 

ワインの聖地ボーヌへ行く。

 翌日 列車でボーヌへ行きました。車窓からの風景です。本当はこういう場所の街道を歩いて旅ができれば良いのでしょうが、そこまでは無理です。

 フランスワインの2大産地はボルドーブルゴーニュです。私の印象では、ボルドーのワイナリーは規模が大きな産業であり、ブルゴーニュは小規模な家内手工業のイメージです。有名なロマネコンティはブルゴーニュにあります。車でロマネコンティの側を通ったことがあります。石垣に囲まれた小さな農園でした。同行のフランス人が「このプロジェクトが成功したら、ロマネコンティで乾杯しよう」と言ったのを覚えています。もちろん、この話は実現していません。

 ちなみにブルゴーニュのワインの中で私は馬鹿の一つ覚えで「Givry」を推奨します。なぜならGivry村のレストランで御馳走になったからです。日本でも売っていて5000円以下で買えます。とても素朴なワインです。「Gevrey (Chambertin)」と名前が似ていますが、違うブランドです。

 下の写真はボーヌの駅前風景。ここから歩いて中心街を目指しました。

 ボーヌの観光の目玉。ホスピスです。世界で最初の病院だそうです。創立1443年。

 中は教会のようでした。両側の壁際にベッドが並んでいました。

 薬剤調整室です。

 ボーヌはブルゴーニュワインの集散基地でもあったので、観光ワイン蔵が観光の目玉になっています。

 いろいろなワインが試飲できます。あまり高いワインは無かった印象です。荷物が重くなるのでワインは購入しませんでした。

 ボーヌの食堂で昼食。「チキンのワイン煮込み  Coq au vin」を頂きました。フランスの家庭料理の定番です。ワインもすごくおいしかったです。

帰りの車窓です。一面のブドウ畑。

 ブルゴーニュ公国の首都 ディジョン

 翌日も電車に乗って北へ、ボーヌの先、ディジョンへ行きました。本当はボーヌとディジョンを一日で済まし、反対方向のアビニヨンへ行くつもりでしたが、カミサンが一つ一つの文物を時間をかけて観察しようとするので予定が全然進みません。今回はカミサン孝行も目的の一つだし、私の主目的のワイン試飲は果たしているので、予定変更です。

 ディジョンも大きな街でした。北へ来たせいか建物の感じが何となくドイツ風です。ちなみにリヨンはフランス人に言わせると何となくイタリア風だそうです。 

 ディジョンブルゴーニュ公国の首都でした。この国はかなり独立性が高かったようで、ジャンヌダルクを魔女と断定して火あぶりにしたのはこの国の人達です。従って、ジャンヌダルクの像は、パリにはあちこちにありますが、この地方では見かけません。

 ディジョン名物のカラシ(Moutarde)屋。日本のカラシとは違って、それほど辛くなく、香りつけです。たくさんの種類がありました。日本のデパート等でも同じブランドが入手可能です。

ディジョンの中心の教会。その中にあるハモンドオルガン

 実はこの頃は相当疲労していたようで、3年前のディジョンの記憶、例えば昼食をどうしたかなど、が思い出せません。年齢が高いと時差が修正できなくなります。若い頃は1週間程度で順応できましたが、この時は全く順応できず、極端な睡眠不足でした。このくらいが限界だったようです。

 旅の終わり

 下の写真はリヨンのベルクール広場の隅にあるサンテクジュベリと彼が書いた「星の王子様」の像。彼もポールボキューズと同様にリヨンのシンボルです。

 今回宿泊したホテル ロイヤル。ちょっと張り込んで高級ホテルでした。しかし、パリの最悪だったホテル(ホテル・ノルマンディ)とそんなに価格は変わりません。

 ホテル ロイヤルの朝食。こんなに美しい朝食は見たことが無かった。

 この旅の一番の収穫はカミサンが喜んでくれたことで、半年ぐらいはご機嫌が良かった。またリヨンへ行きたいと言っています。しかし、この年の12月に新型コロナが発生し、あっという間に世界が変わってしまいました。今でも旅先でコロナに感染した方々の悲惨な体験談を聞くと、恐ろしくて海外旅行など行けません。ワクチンも重症化を防ぐには有効だが予防効果は無いことが明らかになったので、決定的な治療薬が開発されない限り次回のNostalgic Tourは無理でしょう。

 涼しくなったらまた日本の道をせっせと歩きます。

 

第12回 法華谷のハスの花を見に行く

 法華谷は外房線茂原駅から約7km、徒歩1時間半のところにあります。蓮根を集団で栽培しています。ハスの花が盛りの季節に見に行ってみました。7月21日の記録です。

 予想通りハスの花がたくさん咲いていました。しかし、ハスは想定していたよりも大きな植物で、ほとんどの花が私の身長よりも高い所に咲いています。写真が撮れるような花を探し回りました。もちろん畑は水田ですので踏み込むことはできません。しかもイノシシ除けの電気柵に囲まれていて危険です。

 花の色は濃いピンクから白、そしてその中間といろいろです。花を咲かせるために栽培しているのではないので、特に花の色で根茎を選抜しているのはではないからでしょう。公園や植物園のハスとは育てる目的が違います。 

 これは濃いピンク色の花。

 これは白。

 蕾もたくさんありました。あと1~2週間は咲き続けると思います。

 法華谷の奥に藻原寺(ソーゲンジ)奥の院があります。写真の奥に誰かいるように見えますが仏像です。心霊写真ではありませんのでご心配なく。

 この奥の院には日蓮上人の直弟子で藻原寺の開祖、日向上人が修行したとされる洞窟がまだ残っています。これが「法華谷」の地名の由来と思われます。

 このピンク色の塊はジャンボタニシスクミリンゴガイ)の卵です。たくさんありました。稲の苗を食べる害虫ですが、ハスにはそれほどのダメージは無さそうです。

 カエルもたくさんいました。稲と違って中干をしないのでオタマジャクシが繁殖しやすい環境と思います。最近カエルが減少してきたとの話題があります。主な理由は農業用水路が整備されていつでも水を入れられるようになったので、農家が安心して中干をしていることだと思います。稲は水草ではなく湿地帯の植物なので水にずっとつかっているよりも、時々水を抜いたほうが生育が良くなります。しかし、水を抜かれるとオタマジャクシは生きて行けません。

 法華谷の周りの水田は稲の花盛りでした。花弁が無いので目立ちませんが、おしべを出して花粉をまき散らしています。

 やはり放棄田が目立ちます。比較的高低差が無く、まとまった水田なので、大規模化しやすいと思いますが、いろいろな理由、多分一番大きな理由はやろうとする人がいないこと、で農業が継続できないのだと思います。

 途中 林の中の道を通ってみました。鳥の声、虫の声がやかましい。ウグイスがたくさんいました。今年初めてツクツクホーシを聞きました。樹木が密集して風が通らないので蒸し焼きにされているような暑さでした。

 途中にある八幡湖。人工の溜池です。水面を覆っているのはヒシです。

 八幡湖の岸で獲物を狙うシラサギ。これは行く途中で撮影しました。驚いたことに帰る時にも同じところに同じ姿勢でいました。

 真夏には歩き旅はやらないことにしています。しかし、天気予報でこの日の天気は曇、気温はそれほど上がらないと言っていたので出てきたのですが、実際は晴れ時々薄曇りで、直火焼きの中をとぼとぼと歩くことになってしまいました。往復14km。歩数は2万歩弱でした。このくらいが限界でした。

 ハードな長距離歩き旅は10月以降にします。

第11回 中山道 美濃路後半 鵜沼宿から関ケ原そして醒ヶ井宿まで

 鵜沼宿(ウヌマ、岐阜県各務原市)から岐阜市関ケ原を通って醒ヶ井宿(サメガイ、滋賀県米原市)まで歩いてきました。この区間は大半が市街地で自動車や自転車をよけながら道を探して歩くことになります。写真は鵜沼宿

 1日目 鵜沼宿岐阜県各務原市)から加納宿岐阜市内)

 前回のゴール 鵜沼宿に着いたのは午前10時。今日はそれほど距離が無いのでゆっくり歩くことにしました。半分以上は国道21号線の側道を歩き、その他も市街地ばかりで車が多く緊張して歩くことになります。

 旧道の見分け方① 微妙に曲がっている。

もちろん例外はありますが、直線はほとんどありません。

 

下の写真は明らかに新道であって中山道ではありません。こんな道に迷い込んだら引き返すこと。 

旧道の見分け方② 道沿いに神社仏閣、お堂がたくさんある。

 こんなことを頼りに、時々立ち止まってガイドブックを広げながら旧道を探して歩きました。ガイドブックは「ちゃんと歩ける中山道六九次」八木牧夫著 山と渓谷社です。街道歩きの方々と出合うとたいていこの本を持っていました。

 鵜沼宿から加納宿の距離は17kmとデータにはあります。この間には宿場町はありません。距離が長すぎるので新加納宿という間の宿(あいのじゅく)がありました。

 加納宿岐阜市内)の手前にある手力雄神社です。アマテラスオオミカミを天岩戸から引きずり出した力持ちの神様ですが、神社の由来を見るとそんなことよりも軍事拠点としての功績に重点を置いて解説してありました。西からの侵略者を防いできて信長も当初ははね返したが、秀吉の墨俣(スノマタ)一夜城作戦に敗れ炎上したそうです。その後も伊勢湾台風で倒壊したり苦難の歴史がありました。ここだけでなく伊勢湾台風の傷跡はあちこちにありました。

 岐阜駅前に到着したのは3時半頃。歩数は22000歩で約18km歩いたことになります。

駅前のビジネスホテルに投宿しました。

 

2日目 加納宿岐阜市内)から関ケ原

 今日は約35kmと昨日の倍 歩くことになります。午後から雨の予報なので5時半にホテルを出発しました。

 最近はどこの地方都市でも駅前の風景が似通っています。しかし、岐阜駅周辺は特徴がありすぎです。

 北口=長良口前は衣類の問屋街です。ブランド物ではなさそうで、ユニクロやワークマンやイーオンで売っているものとも違う、地方や町はずれの洋品店で中高年用に販売しているような衣料品ではないかと思います。(違っていたらごめんなさい)写真は朝6時前なので人がいません。昼間でも一般客を相手にしていないのでそれほど人はいません。

 

 北口正面には黄金の信長像があります。このようなものを作るセンスにはついて行けません。しかもマスクしています。

 南口=加納口は歓楽街というかエロ街です。早朝には誰もいません。東京のように眠らない街ではないようです。

 と言うわけで、昨晩の夕食は駅ビル以外に選択肢がありませんでした。

 ここから関ケ原まではほぼ市街地を旧道を探して歩きます。超巨大迷路です。

 旧道沿いには神社・仏閣が多数あります。秋葉神社と言う神社やお堂が大変多い。祭神はヒノカグツチノカミという火の神様で、火事を鎮める神様でもあるそうです。当時から人口密度が高く火事を防ぐことが最重要課題だったことが推測できます。なお、下の写真で真ん中は八幡様(応神天皇)で、両脇が秋葉神社と天神様(菅原道真)です。

 長良川を渡る河渡(ゴート)橋から眺めた岐阜城。山の上にポツンと見えるのがお城です。かなり高い所にあり、登城するのは大変だったろうと思います。この岐阜城揖斐川を過ぎても見えます。これがだんだん遠くなるのでがんばれます。

 今日は長良川揖斐川を渡ります。江戸時代には橋は無く渡し舟だったので、旧道には橋がありません。河を渡る時には新道を歩くしかありません。旧道から新道へ、そしてまた新道から旧道へ、それがこの区間の道がややこしくなる理由の一つだと思います。

 霧雨が降り出しました。気になるほどではなく傘を差さずに歩きました。

 この写真は小簾紅園(おずこうえん) 揖斐川を渡る鷺田橋(さぎたばし)の近くにあります。皇女和宮がここを通ったことを記念して昭和になってから作られた紅葉が名物の小さな公園です。ここで一休み。

 皇女和宮の降嫁は大イベントだったようで、ここで休息したとか宿泊したとかあちこちにエピソードが残っています。中山道の宿場町は家の改装等で大騒ぎだったようで、ここは良い思い出として受け止められているようですが、財力の乏しい地域では大迷惑だったようです。そんなに歓迎しているのに「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」後半に「人なつかしく」とありますが、和宮の周りには人がたくさんいたはずなのに、彼女にとっては話が合わず、慰めてくれる相手でもなかったのでしょう。この和歌が詠まれたのが、この場所とされています。

 この区間には河渡(ごうと)、美江寺、赤坂、垂井と宿場町があります。しかし、当時の建物が残っているものの単独でぽつりぽつりとあるだけで町の雰囲気は出ません。せめて3~5軒つながっていれば風景になると思います。金沢などは強引に武家屋敷を移設して集めて観光名所を作ってしまっています。

 

  この建物など昔の家をリフォームして商売をしています。こういう家でも軒を連ねていれば雰囲気が出たはずなのにもったいない。


 赤坂宿にあった昼飯(ひるい)大塚古墳。大きな前方後円墳です。古墳を改装して当時の形に再現して公園にしてありました。ちなみに昼飯とはここの地名で、善行寺の仏像(日本に伝来した最初の仏像と言われている。)を大阪から長野まで運んだ時、ここで昼食にしたところからつけられたそうです。ヒルメシでは品が無いので読み方を工夫したとか。

 垂井の一里塚。家康側の浅野幸長がここに陣地を作ったそうです。この時 家康は垂井宿の一つ手前の赤坂宿にいたので、家康を守るつもりだったと思われます。このあたりから史跡のほとんどは関ケ原合戦関連になってきます。家康が陣を張った桃配山はこの少し先です。

 関ケ原の手前にある松並木。ようやく市街地を抜けて排気ガスから解放されました。この松並木の終点付近に家康の陣地 桃配山があります。

 JR関ケ原駅に到着したのは14:30頃。歩数は37000歩。約31km歩きました。平地なので歩幅が大きくできて歩数が少なくなったと思われます。大垣まで列車で戻って駅前のビジネスホテルに投宿。

 ずっと霧雨に降られていましたが、寒くもなく暑くもなく歩くには好適でした。名前は忘れましたが、日本文学を研究していた外国人が日本の季節の中で梅雨が一番好きだと言っていました。雨がやんだ夕暮れに薄闇の中に咲くアジサイが好きだそうです。変わった人だなとその時は思いましたが、その気分がわかるような気がしました。

3日目 関ケ原から醒ヶ井宿

 大垣5:53発の始発で関ケ原へ。天気は晴。

 この写真は関ケ原駅の近くにある東の首塚です。徳川軍の中軸と思われる井伊・松平軍の陣地だった場所で、戦いの後、討ち取った武将の首を家康が首実検したところと言われています。それらの首を埋めた塚があります。シイノキの巨木が生えてその根っこが塚を覆っていて発掘などできない状態になっています。

 東の首塚から眺めると山の中腹が切り開かれて旗が立っています。地図から判断すると戦いの烽火が上げられた場所のようです。すぐ近くに見えます。このように関ケ原全体がテーマパーク化されていて、各大名の陣地跡が掲示されています。日曜日だったので朝から歴史マニアが何人も歩き回っていました。

 これは関ケ原宿のはずれにある西の首塚です。こちらは無名戦士の墓で、東軍・西軍の区別無く葬られているそうです。この写真を撮った後、カメラが故障しました。なんか妙なものを撮ってしまったかもしれません。以後の写真はスマホで撮ったものです。

 

 関ケ原を過ぎると中山道は田舎道に入ります。ほっとします。今須峠で今回最初で最後の峠道。カワトンボの仲間と思われる茶色の羽を持った細身のトンボがいました。カメラ故障で撮れず残念。

 関ケ原のはずれ不破の関壬申の乱の主戦場でした。両軍の血が流れたので黒血川と名付けられた川があります。戦国時代の関ケ原の合戦とは少し場所がずれています。

 柏原宿です。静かな歴史の町です。旧道が微妙に曲がっているのもお分かりと思います。

 柏原宿のカエデ並木。

 醒ヶ井(サメガイ)宿は清流に沿って宿場が並んでいます。水草は梅花藻(バイカモ)。小さな魚がいてイトヨというそうです。晴れの日曜だったので観光客が数名。

 JR醒ヶ井駅到着はまだ朝の9時半でした。この日の歩数は13000歩。体力的・時間的にはまだ先まで行けましたが、この先は路が線路から離れてしまうので、ここで打ち止めにして帰宅しました。

 京都三条大橋まで約80km。無理せず歩いて4日間の行程です。