旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第11回 中山道 美濃路後半 鵜沼宿から関ケ原そして醒ヶ井宿まで

 鵜沼宿(ウヌマ、岐阜県各務原市)から岐阜市関ケ原を通って醒ヶ井宿(サメガイ、滋賀県米原市)まで歩いてきました。この区間は大半が市街地で自動車や自転車をよけながら道を探して歩くことになります。写真は鵜沼宿

 1日目 鵜沼宿岐阜県各務原市)から加納宿岐阜市内)

 前回のゴール 鵜沼宿に着いたのは午前10時。今日はそれほど距離が無いのでゆっくり歩くことにしました。半分以上は国道21号線の側道を歩き、その他も市街地ばかりで車が多く緊張して歩くことになります。

 旧道の見分け方① 微妙に曲がっている。

もちろん例外はありますが、直線はほとんどありません。

 

下の写真は明らかに新道であって中山道ではありません。こんな道に迷い込んだら引き返すこと。 

旧道の見分け方② 道沿いに神社仏閣、お堂がたくさんある。

 こんなことを頼りに、時々立ち止まってガイドブックを広げながら旧道を探して歩きました。ガイドブックは「ちゃんと歩ける中山道六九次」八木牧夫著 山と渓谷社です。街道歩きの方々と出合うとたいていこの本を持っていました。

 鵜沼宿から加納宿の距離は17kmとデータにはあります。この間には宿場町はありません。距離が長すぎるので新加納宿という間の宿(あいのじゅく)がありました。

 加納宿岐阜市内)の手前にある手力雄神社です。アマテラスオオミカミを天岩戸から引きずり出した力持ちの神様ですが、神社の由来を見るとそんなことよりも軍事拠点としての功績に重点を置いて解説してありました。西からの侵略者を防いできて信長も当初ははね返したが、秀吉の墨俣(スノマタ)一夜城作戦に敗れ炎上したそうです。その後も伊勢湾台風で倒壊したり苦難の歴史がありました。ここだけでなく伊勢湾台風の傷跡はあちこちにありました。

 岐阜駅前に到着したのは3時半頃。歩数は22000歩で約18km歩いたことになります。

駅前のビジネスホテルに投宿しました。

 

2日目 加納宿岐阜市内)から関ケ原

 今日は約35kmと昨日の倍 歩くことになります。午後から雨の予報なので5時半にホテルを出発しました。

 最近はどこの地方都市でも駅前の風景が似通っています。しかし、岐阜駅周辺は特徴がありすぎです。

 北口=長良口前は衣類の問屋街です。ブランド物ではなさそうで、ユニクロやワークマンやイーオンで売っているものとも違う、地方や町はずれの洋品店で中高年用に販売しているような衣料品ではないかと思います。(違っていたらごめんなさい)写真は朝6時前なので人がいません。昼間でも一般客を相手にしていないのでそれほど人はいません。

 

 北口正面には黄金の信長像があります。このようなものを作るセンスにはついて行けません。しかもマスクしています。

 南口=加納口は歓楽街というかエロ街です。早朝には誰もいません。東京のように眠らない街ではないようです。

 と言うわけで、昨晩の夕食は駅ビル以外に選択肢がありませんでした。

 ここから関ケ原まではほぼ市街地を旧道を探して歩きます。超巨大迷路です。

 旧道沿いには神社・仏閣が多数あります。秋葉神社と言う神社やお堂が大変多い。祭神はヒノカグツチノカミという火の神様で、火事を鎮める神様でもあるそうです。当時から人口密度が高く火事を防ぐことが最重要課題だったことが推測できます。なお、下の写真で真ん中は八幡様(応神天皇)で、両脇が秋葉神社と天神様(菅原道真)です。

 長良川を渡る河渡(ゴート)橋から眺めた岐阜城。山の上にポツンと見えるのがお城です。かなり高い所にあり、登城するのは大変だったろうと思います。この岐阜城揖斐川を過ぎても見えます。これがだんだん遠くなるのでがんばれます。

 今日は長良川揖斐川を渡ります。江戸時代には橋は無く渡し舟だったので、旧道には橋がありません。河を渡る時には新道を歩くしかありません。旧道から新道へ、そしてまた新道から旧道へ、それがこの区間の道がややこしくなる理由の一つだと思います。

 霧雨が降り出しました。気になるほどではなく傘を差さずに歩きました。

 この写真は小簾紅園(おずこうえん) 揖斐川を渡る鷺田橋(さぎたばし)の近くにあります。皇女和宮がここを通ったことを記念して昭和になってから作られた紅葉が名物の小さな公園です。ここで一休み。

 皇女和宮の降嫁は大イベントだったようで、ここで休息したとか宿泊したとかあちこちにエピソードが残っています。中山道の宿場町は家の改装等で大騒ぎだったようで、ここは良い思い出として受け止められているようですが、財力の乏しい地域では大迷惑だったようです。そんなに歓迎しているのに「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」後半に「人なつかしく」とありますが、和宮の周りには人がたくさんいたはずなのに、彼女にとっては話が合わず、慰めてくれる相手でもなかったのでしょう。この和歌が詠まれたのが、この場所とされています。

 この区間には河渡(ごうと)、美江寺、赤坂、垂井と宿場町があります。しかし、当時の建物が残っているものの単独でぽつりぽつりとあるだけで町の雰囲気は出ません。せめて3~5軒つながっていれば風景になると思います。金沢などは強引に武家屋敷を移設して集めて観光名所を作ってしまっています。

 

  この建物など昔の家をリフォームして商売をしています。こういう家でも軒を連ねていれば雰囲気が出たはずなのにもったいない。


 赤坂宿にあった昼飯(ひるい)大塚古墳。大きな前方後円墳です。古墳を改装して当時の形に再現して公園にしてありました。ちなみに昼飯とはここの地名で、善行寺の仏像(日本に伝来した最初の仏像と言われている。)を大阪から長野まで運んだ時、ここで昼食にしたところからつけられたそうです。ヒルメシでは品が無いので読み方を工夫したとか。

 垂井の一里塚。家康側の浅野幸長がここに陣地を作ったそうです。この時 家康は垂井宿の一つ手前の赤坂宿にいたので、家康を守るつもりだったと思われます。このあたりから史跡のほとんどは関ケ原合戦関連になってきます。家康が陣を張った桃配山はこの少し先です。

 関ケ原の手前にある松並木。ようやく市街地を抜けて排気ガスから解放されました。この松並木の終点付近に家康の陣地 桃配山があります。

 JR関ケ原駅に到着したのは14:30頃。歩数は37000歩。約31km歩きました。平地なので歩幅が大きくできて歩数が少なくなったと思われます。大垣まで列車で戻って駅前のビジネスホテルに投宿。

 ずっと霧雨に降られていましたが、寒くもなく暑くもなく歩くには好適でした。名前は忘れましたが、日本文学を研究していた外国人が日本の季節の中で梅雨が一番好きだと言っていました。雨がやんだ夕暮れに薄闇の中に咲くアジサイが好きだそうです。変わった人だなとその時は思いましたが、その気分がわかるような気がしました。

3日目 関ケ原から醒ヶ井宿

 大垣5:53発の始発で関ケ原へ。天気は晴。

 この写真は関ケ原駅の近くにある東の首塚です。徳川軍の中軸と思われる井伊・松平軍の陣地だった場所で、戦いの後、討ち取った武将の首を家康が首実検したところと言われています。それらの首を埋めた塚があります。シイノキの巨木が生えてその根っこが塚を覆っていて発掘などできない状態になっています。

 東の首塚から眺めると山の中腹が切り開かれて旗が立っています。地図から判断すると戦いの烽火が上げられた場所のようです。すぐ近くに見えます。このように関ケ原全体がテーマパーク化されていて、各大名の陣地跡が掲示されています。日曜日だったので朝から歴史マニアが何人も歩き回っていました。

 これは関ケ原宿のはずれにある西の首塚です。こちらは無名戦士の墓で、東軍・西軍の区別無く葬られているそうです。この写真を撮った後、カメラが故障しました。なんか妙なものを撮ってしまったかもしれません。以後の写真はスマホで撮ったものです。

 

 関ケ原を過ぎると中山道は田舎道に入ります。ほっとします。今須峠で今回最初で最後の峠道。カワトンボの仲間と思われる茶色の羽を持った細身のトンボがいました。カメラ故障で撮れず残念。

 関ケ原のはずれ不破の関壬申の乱の主戦場でした。両軍の血が流れたので黒血川と名付けられた川があります。戦国時代の関ケ原の合戦とは少し場所がずれています。

 柏原宿です。静かな歴史の町です。旧道が微妙に曲がっているのもお分かりと思います。

 柏原宿のカエデ並木。

 醒ヶ井(サメガイ)宿は清流に沿って宿場が並んでいます。水草は梅花藻(バイカモ)。小さな魚がいてイトヨというそうです。晴れの日曜だったので観光客が数名。

 JR醒ヶ井駅到着はまだ朝の9時半でした。この日の歩数は13000歩。体力的・時間的にはまだ先まで行けましたが、この先は路が線路から離れてしまうので、ここで打ち止めにして帰宅しました。

 京都三条大橋まで約80km。無理せず歩いて4日間の行程です。