旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第13回 フランスの古都リヨンとブルゴーニュ地方を歩く。

 この回は2019年の8月、まだ新型コロナが蔓延する前の旅の記録です。

 私は40代から50代前半の頃は ほぼ2か月に一回は海外出張をするような仕事をしていました。出張ですからせいぜい1カ所に1~2泊して次の目的地に向かうような忙しい旅でした。引退したら出張経験から印象の良かったところへカミサンを連れて行ってみたいとNostalgic Tour計画と称していろいろ考えていて、まずは最も出張回数の多かったリヨンへ行ってみました。もちろんその後の計画は新型コロナとウクライナ戦争で頓挫しております。

 オーバーツアリズムで大混雑のパリで財布をすられる 

 まず、パリに2泊しました。私はパリには10回以上来ていますが、最後に来たのは10年以上前です。これほど混雑したパリは見たことがありません。オーバーツアリズムは世界的現象で、日本だけがインバウンド旅行客で賑わっていたわけではありません。ルーブル美術館も大行列で、予約が無ければその行列に並ぶことさえできません。スリ・かっぱらいもたくさんいて、なんと私も財布をやられました。現金だけ抜いてクレジットカードはそのままでした。神技でした。海外出張のベテランのはずが衰えました。情けない話です。

 ホテルも観光客用レストラン(ビストロ)も昔より品質が落ちていました。宿泊したホテル・ノルマンディーは、ブティック街のサントノーレ通りに面していて、ルーブル美術館まで徒歩5分という抜群の立地条件だったので、これまで何回も利用していました。ところが、この10年で設備は劣化し、シャワーは出ない、エアコンは効かない、日除けのシャッターは蝶番が壊れて斜めになっている。そのくせ一丁前の料金を取る。最悪でした。何もしなくても客はたくさん来るのではサービスする気にならないのでしょう。

 パリにて「モネの睡蓮」に感動する

 そんなパリでほとんど唯一の成果が念願だった「モネの睡蓮」を見ることができたことです。パリの中心部チュイルリー公園の西の端にオランジュリー美術館という小さな美術館があります。この地下1階の壁が全て「モネの睡蓮」です。モネは睡蓮の絵をたくさん描いていて日本にも何枚かありますが、この睡蓮は他とは全く違います。モネは晩年白内障で視力をほとんど失っています。この睡蓮は目が弱った老画家による遺作なのです。8枚の大きな絵が1日の光の移ろいを表現しています。

 特に最後の日没後の水面に浮かぶ水連は、もはや花の形はしていません。ここに30分ほど座り込んでいました。

 ルーブルもオルセーも素晴らしいですが、パリに行く機会があったら是非時間を作ってオランジュリーに行ってください。

 早々に大混雑のパリを出てリヨンに向かいました。写真はリヨン駅。と言ってもパリにある駅です。すごく立派です。リヨン行TGV(新幹線)がここから出ます。


 最初の海外出張がリヨンだった。1985年。

 秋だったと思います。明日一人で外人相手に打合せをしなければならない不安と緊張の中で夕暮れのリヨンの街をとぼとぼ歩いていました。何しろ海外は初めてだったので私の脳にある種の刷り込みがあったのだと思います。後年 かっての上司から「お前はヨーロッパが好きすぎるのでヨーロッパ駐在にはしなかったのだ。」と聞かされました。

 古都リヨンの半日コース ① 朝市

 その後 何回もリヨンに来る中で、海外出張初心者をサポートすることもありました。仕事なので観光する時間は限られています。そこで朝少し早く起きてもらってソーヌ川の川縁の朝市に連れて行きました。たいていの方は感動してくれます。ほとんどの場合、観光はこれだけでした。

 

 もう少し時間があればソーヌ川を渡ってもっと古い地区へ行けます。

半日コース ②ローマ帝国の遺跡群
 朝市の場所からソーヌ川を渡り、教会の方に行くとケーブルカーがあり、それに乗ってフルビエールの丘に登ります。リヨンはローマ帝国の衛星都市であり、当時ガリアと呼ばれていたこの地域の支配拠点でした。その頃の都市はこの高台にありました。当時はローヌ川とソーヌ川が暴れ川なので低地には住めなかったのではないかと思われます。

 まだ劇場の遺跡が残っていて演劇やコンサートに使用されています。丁度 公演の準備中でした。たいていの人は連れてきただけで感動してくれます。このようなローマの劇場はヨーロッパの各地に残っていて皆ローマの方角を向いているそうです。

 半日コース ③ 世界遺産地区

 またケーブルカーで降りると丘のふもとが世界遺産地区です。実はこの地区には何回か来ていたのですが、どこが遺産地区なのかわかりませんでした。なぜなら薄汚い建物群があるだけだったからです。今回わかったのですがその薄汚い建物が世界遺産でした。これらは400~500年前の建造物です。

 王宮や城郭や貴族の館は今も残っている場合が多いのですが、庶民の生活の場がそのまま残されていることは極めて珍しい。日本でも江戸時代の農家が保存されている例は、私の知る限り1~2例しかありません。昔は庶民の家には遺産とする価値は無いと思われていたのです。フランスが庶民・商人の住んでいた建物を遺産とすることを推薦したことは先進的だと思います。

 美食の街 リヨン

 フランス人は外食が好きです。特にリヨンには食べることを楽しむ文化があります。食堂の呼び名はグレードによって上からレストラン、ブッション、ビストロなどに分かれます。パリでは主にビストロで食べていました。ブッションはリヨン特有の呼び名らしく、ビストロより少し格上のイメージです。

  昼食に旧市街を離れて新市街にあるポール・ボキューズ市場に行ってみました。ポール・ボキューズは伝説の料理人で既に故人です。人間国宝のような存在でした。

 中には食料品店がたくさんあります。ハム屋、チーズ屋などの前にはイスとテーブルがあって、ハムやチーズを切ってパンとワインも付けて出していました。このあたりはビジネス街なのでサラリーマンが昼飯に来ていました。栄養は偏っていますが、ものすごくうまそうでした。しかし、注文の仕方がわからない。残念ながらフランス語ができないと楽しめない世界でした。ここでクネル屋で昼食にしました。クネルとはリヨン名物で魚のすり身を蒸して固めたもので、日本のはんぺんによく似ています。正直言っておいしくなかった。醤油とわさびの方が合うでしょう。なお、ブラタモリがリヨンに来ていますが、その時タモリが立ち寄った店がここです。彼も「珍しい」とは言ったが「おいしい」とは言わなかった。

 写真はマロニエ通りです。このように街にはブッション(食堂)が集まっている通りが何本かあり、客はぶらぶら歩きながらどこに入るか決めるようです。メニューは値段付きで外に出ています。しかし、どんな料理が出てくるか、フランス人でもわからないようです。

 以前はカエルとか臓物料理とかゲテモノ系がありました。今回見た限り、ゲテモノ系は見つかりませんでした。

 リヨンには3泊しましたが、そのうち2晩はこのマロニエ通りにしました。デザートは全てサンマルセランというリヨンの柔らかいチーズにしました。これをパンに塗って赤ワインに合わせるとたまりません。これらは日本でも入手できます。しかし、フランスで食べる味が出ません。たぶん、主に空気の湿度の問題だと思います。

 1晩だけはレストランにしました。Chez Moss(料理人のモスさん)という魚料理の店です。値段はブッションの2倍くらいです。写真はこのレストランのホームページから取ったものです。欧米では料理の写真を撮ることはマナー違反で恥ずかしい行為とされます。日本人は案外これを知りません。

Strepitoso !!!

 

ワインの聖地ボーヌへ行く。

 翌日 列車でボーヌへ行きました。車窓からの風景です。本当はこういう場所の街道を歩いて旅ができれば良いのでしょうが、そこまでは無理です。

 フランスワインの2大産地はボルドーブルゴーニュです。私の印象では、ボルドーのワイナリーは規模が大きな産業であり、ブルゴーニュは小規模な家内手工業のイメージです。有名なロマネコンティはブルゴーニュにあります。車でロマネコンティの側を通ったことがあります。石垣に囲まれた小さな農園でした。同行のフランス人が「このプロジェクトが成功したら、ロマネコンティで乾杯しよう」と言ったのを覚えています。もちろん、この話は実現していません。

 ちなみにブルゴーニュのワインの中で私は馬鹿の一つ覚えで「Givry」を推奨します。なぜならGivry村のレストランで御馳走になったからです。日本でも売っていて5000円以下で買えます。とても素朴なワインです。「Gevrey (Chambertin)」と名前が似ていますが、違うブランドです。

 下の写真はボーヌの駅前風景。ここから歩いて中心街を目指しました。

 ボーヌの観光の目玉。ホスピスです。世界で最初の病院だそうです。創立1443年。

 中は教会のようでした。両側の壁際にベッドが並んでいました。

 薬剤調整室です。

 ボーヌはブルゴーニュワインの集散基地でもあったので、観光ワイン蔵が観光の目玉になっています。

 いろいろなワインが試飲できます。あまり高いワインは無かった印象です。荷物が重くなるのでワインは購入しませんでした。

 ボーヌの食堂で昼食。「チキンのワイン煮込み  Coq au vin」を頂きました。フランスの家庭料理の定番です。ワインもすごくおいしかったです。

帰りの車窓です。一面のブドウ畑。

 ブルゴーニュ公国の首都 ディジョン

 翌日も電車に乗って北へ、ボーヌの先、ディジョンへ行きました。本当はボーヌとディジョンを一日で済まし、反対方向のアビニヨンへ行くつもりでしたが、カミサンが一つ一つの文物を時間をかけて観察しようとするので予定が全然進みません。今回はカミサン孝行も目的の一つだし、私の主目的のワイン試飲は果たしているので、予定変更です。

 ディジョンも大きな街でした。北へ来たせいか建物の感じが何となくドイツ風です。ちなみにリヨンはフランス人に言わせると何となくイタリア風だそうです。 

 ディジョンブルゴーニュ公国の首都でした。この国はかなり独立性が高かったようで、ジャンヌダルクを魔女と断定して火あぶりにしたのはこの国の人達です。従って、ジャンヌダルクの像は、パリにはあちこちにありますが、この地方では見かけません。

 ディジョン名物のカラシ(Moutarde)屋。日本のカラシとは違って、それほど辛くなく、香りつけです。たくさんの種類がありました。日本のデパート等でも同じブランドが入手可能です。

ディジョンの中心の教会。その中にあるハモンドオルガン

 実はこの頃は相当疲労していたようで、3年前のディジョンの記憶、例えば昼食をどうしたかなど、が思い出せません。年齢が高いと時差が修正できなくなります。若い頃は1週間程度で順応できましたが、この時は全く順応できず、極端な睡眠不足でした。このくらいが限界だったようです。

 旅の終わり

 下の写真はリヨンのベルクール広場の隅にあるサンテクジュベリと彼が書いた「星の王子様」の像。彼もポールボキューズと同様にリヨンのシンボルです。

 今回宿泊したホテル ロイヤル。ちょっと張り込んで高級ホテルでした。しかし、パリの最悪だったホテル(ホテル・ノルマンディ)とそんなに価格は変わりません。

 ホテル ロイヤルの朝食。こんなに美しい朝食は見たことが無かった。

 この旅の一番の収穫はカミサンが喜んでくれたことで、半年ぐらいはご機嫌が良かった。またリヨンへ行きたいと言っています。しかし、この年の12月に新型コロナが発生し、あっという間に世界が変わってしまいました。今でも旅先でコロナに感染した方々の悲惨な体験談を聞くと、恐ろしくて海外旅行など行けません。ワクチンも重症化を防ぐには有効だが予防効果は無いことが明らかになったので、決定的な治療薬が開発されない限り次回のNostalgic Tourは無理でしょう。

 涼しくなったらまた日本の道をせっせと歩きます。