旅を歩く

街道を歩いた記録です。興味ある方はご参考に。

第18回 四国遍路 香川編

 11月上旬に新型コロナに感染し当初予定より出発が2週間遅れたため、寒波に遭遇。大変難渋しましたが、なんとかゴールできました。

1日目 掟を破ってタクシーとロープウエイを使う

 私の遍路旅は列車やバスは使うがタクシーは使わないことを原則としていましたが、この日に限ってはタクシーどころか、ロープウエイまで使って体力温存することにしました。この遍路旅は2回目です。前回 本日参拝する66番雲辺寺に徒歩で登り下りしたところ膝を痛め、その後 大変苦しみました。なお、雲辺寺は八十八カ所の中で最も高い所にあります。

 観音寺駅(かんおんじと読みます。かんのんではありません。)到着は11時半過ぎ。駅前からタクシーでロープウエイ駅に行き、ロープウエイで66番 雲辺寺に直行しました。タクシー代3200円、ロープウエイ代2200円を出費。タクシーの運転手さんの話では最近この町に移住してくる人が多いそうです。ただし、買い物するにもショッピングモールの時代になっているので車が無いと生活できないだろうと。

 ロープウエイ山麓駅の温度計は7℃、山頂駅は1℃でした。雪がうっすら積もっていました。雲辺寺の建物はコンクリート製で残念ながら貫禄が無い。

  

 しかし、ここの五百羅漢は見ごたえあります。四国に多い緑色の石(緑色片岩)で作られていて、それほど古いものではなさそうだが、一つ一つ個性的です。前回来た時にもお会いした笑顔の羅漢さんにご挨拶して山を降りました。

 ロープウエイ駅から徒歩で山をおります。この山麓は戦前は陸軍の射撃演習場だったそうでトーチカが遺跡として残っていました。

 番外霊場 萩原寺に到着。先ほど参拝した雲辺寺はもとはこの萩原寺奥の院の位置づけだったそうです。今は地域の静かなお寺です。

 2時間ほど歩いて 67番 大興寺をめざします。この道が交通量がとても多いにもかかわらずほとんど歩道が無く、電信柱などに隠れて車をよけながら歩くのでなかなか前に進みません。本堂は工事中でした。

 そろそろ日が傾いてきたのでペースを上げます。観音寺駅近くのホテルにたどり着いたのは日没後でした。この日は約3万歩、24km相当でした。途中疲れを感じて新型コロナの後遺症をちょっと心配しましたが、半日で24kmも早足で歩けば疲れるのが当たり前と自分で納得しました。

 2日目 空海の出生地及び少年期を過ごした地域を回る。

 天気予報は1日中雨でした。これまで遍路旅で雨に降られたことはありましたが、終日降られたことはありません。雨の少ない季節を選んで出てきていることもありますが、今まで運が良かったのだと思います。

 まず、観音寺(かんおんじ)の名勝として知られるの琴弾(ことびき)公園の寛永通宝の砂絵を見に行きました。この展望台まで結構な坂道で朝一番に一汗かきました。後期高齢者など足の悪い方は歩いて登るのはやめた方がいいと思います。曇なので写真がはっきりせず残念です。砂絵は雨風で崩れやすいから頻繁に修繕しているかと思ったら春秋2回だけだそうです。砂質が重いのだと思います。

 68番神恵院と69番観音寺は同じ敷地にあります。この写真は観音寺前から神恵院を撮ったところ。左は観音寺の大師堂で建物が入り組んでいます。

 観音寺はコンクリート製の新しい建物で、前庭は回廊で囲まれています。

 その中に阿弥陀堂がありました。そこで前回 参拝した時 この阿弥陀堂に高齢の父の安らかな往生をお願いしたことを思い出しました。父は昨年 永眠しました。安らかだったかどうかは本人しかわからないのですが、百歳まで長生きしたので、その御礼をしました。なお、私がこの旅で着てた衣類は亡き父のものです。

この2つの寺の納経所は共通で、その入り口で閻魔大王がにらんでいました。

 観音寺から次の50番本山寺までは約5kmです。ここで雨が本降りになってきました。傘を差して歩きました。この区間も交通量が多いが、歩道があるので歩きやすい。途中で県道を離れ川の堤防を歩きます。シラサギの群れがいました。

 70番本山寺五重塔があるので遠くからもよくわかります。川の堤防なので前後1~2kmくらいは見渡せます。歩いている人は誰もいません。お寺には5~10人程度の遍路がいるのに、歩いている人がいないということは、ほとんどの人が自動車を利用しているということです。

 70番 本山寺に着きました。八十八カ所のうち五重塔を持つ寺院は多くありません。

 ところがここから本山駅へ行こうとして方向を間違えました。雨なので太陽の方向が分からず、だれでも方向音痴になります。本山駅から みの駅へ列車移動して、そこから71番 弥谷寺(いやたに)へ歩きます。今度はスマホで慎重に方向を確認しました。

 1時間歩いて弥谷寺の登り口にある道の駅「ふれあいパークみの」で昼食にしました。国道沿いでもないところに道の駅があるのはちょうどここに温泉があり、日帰り入浴ができるからです。坂道を登って弥谷寺の仁王門へ、さらに石段があります。

 弥谷寺は岩壁に張り付くように建てられています。

 大師堂の奥に空海が少年時代に勉学に励んだとされる洞窟がありました。洞窟の奥にかなり古そうな摩崖仏が残っています。

 摩崖仏は本堂の外にもあります。かなり摩耗しています。石碑なども同様に摩耗しています。ここの岩の性質かもしれませんし、人為的に削ったようにも見えます。

 弥谷寺のある山には戦国時代に天霧城という山城があったそうです。そこの城主だった香川氏代々の墓です。豊臣秀吉によって滅ぼされるまで続いたそうです。

 弥谷寺から72番 曼荼羅寺まで遍路道は山の中を通ります。本降りの雨の中、傘をさして歩きました。落葉が厚く積もっていて滑るので一歩一歩慎重に歩きました。ここで怪我したら遭難です。約1時間歩いて 72番 曼荼羅寺に到着です。

 73番 出釋迦寺は曼荼羅寺から500mです。

 出釋迦寺の背後にある捨身ヶ嶽(我拝師山)です。空海が7歳の時この崖の上から身を投げ、それを天女が抱き留めたとの伝説があります。仏に仕えて多くの人を救うことができるならば釈迦如来が現れるはず、この身を仏に捧げると考えて飛び降りたとされます。空海超人伝説のひとつです。

 出釋迦寺に2~3mの三葉松がありました。高野山の松の子供でしょう。

 74番 甲山寺までは住宅地と工場地帯の間を抜けて行きます。特に甲山寺は工場に囲まれています。お遍路を世界文化遺産にしようと運動されているようですが、お寺の隣が建設会社の資材工場でコンクリートミキサーやダンプカーがどんどん通るような道まで文化遺産にするのは無理があるような気がします。甲山寺空海が子供の頃遊んだ場所だそうです。写真は撮り損ないました。

 甲山寺から75番 善通寺までは工場と住宅地帯を通って30分くらいです。善通寺空海の出生地とされる豪族 佐伯氏の邸宅跡です。敷地は広大で空海が名家の出身であることがわかります。

 善通寺にも五百羅漢がありました。しかし、雲辺寺の五百羅漢の方がユーモアがあります。大師堂はこの敷地にはなく参道を挟んで別の敷地にありました。

 

 善通寺の大師堂は本堂よりも大きい。この中には真言密教の儀式を行うであろう内陣があります。残念ながら撮影禁止です。善通寺のホームページに写真があります。

 ここで時刻は3時半頃。雨の中を歩いてきてだいぶ消耗しました。当初予定では76番 金倉寺まで行くつもりでしたが、日没までには無理と判断し、善通寺近くのホテルに投宿。まずは服とリュックを乾かさなければなりません。この日は41000歩、34km相当でした。

 3日目 陰の主役 崇徳上皇の痕跡

 雨がやみました。朝7時半にホテルを出発して金倉寺へ。住宅地の中を道しるべを頼りにクネクネと進みます。微妙に曲がっているので古い街道でしょう。高速道をくぐるところで道しるべを見失い、スマホの地図を頼りに進みました。それほど時間をロスせずに約1時間で到着できました。

 寒波の中 桜が咲いていました。

 

 金倉寺のすぐ近くのJR金蔵寺駅から列車で琴平まで行き、金比羅宮に行ってみました。余談ですが、いちいち字が違います。

 JR琴平駅です。日曜日だったので参道にはたくさんの人がいました。みやげ物屋がたくさんあり観光地らしい観光地でした。

 

 金比羅名物の785段もある長い長い石段を登り、金比羅宮に参拝。この写真は本宮ではなくその手前にある旭社です。ここの祭神は天御中主神高皇産霊神神皇産霊神。彼らは神道の神々の中で最初に現れて、日本列島を作った神々です。本宮の祭神は大物主神(オオモノヌシ) 大国主とも呼ばれる国津神のボスです。天津神のアマテラス一族に国譲りして出雲に引きこもったはずですが、あちこちで生き延びています。ちなみに、今回は行きませんでしたが、奥の院の祭神は陰の主役 崇徳上皇です。

 金比羅宮 本宮から眺めた讃岐平野。正面が讃岐富士と呼ばれる飯野山です。讃岐にはこのような富士山型の低山がたくさんあります。1400万年前の火山活動の名残だそうですが、当時はこんなにたくさん火山があったということです。

 金比羅宮参道の途中、表書院にある丸山応挙の虎の襖絵。この著名な画家は本物を見たことが無かったらしい。これでは猫です。国宝級の迷作。

  

なお、伊藤若冲の花の天井画のある奥書院は非公開です。金比羅宮はこのような宝物をたくさん持っている不思議な神社です。

 JR琴平駅から多度津駅まで列車移動して77番 道隆寺に参拝。

 道隆寺に妙見宮がありました。妙見とは北斗七星のことです。もともとは中国の道教にあったものが仏教に取り込まれて日本に伝わったとされます。日本のあちこちにありますが、背景がよくわかりません。

 また多度津駅に戻って宇多津駅まで列車移動して78番 郷照寺に参拝。

 郷照寺から79番 天皇寺までの約7kmはちゃんと歩きました。この道は丸亀街道~本街道と歴史的な街道です。こういう古い道にはよくあることですが、閉店した商店ばかり見せられることになります。特に坂出駅前の長いアーケード街は日曜だというのにほとんど開店していません。そこに地方創生を訴える政治家のポスターがむなしい。

 目指す天皇寺の少し手前にある八十場(やとば)の水。霊水として知られ、これを飲むと食中毒が治ったとか、崇徳上皇の遺体を浸したら腐敗しなかった、などの伝説があります。

  これは天皇寺と同じ敷地にある白峯神社です。祭神は崇徳上皇です。しかし、ここでは崇徳天皇と呼ばれています。この鳥居は三つ鳥居と言って大和の大神(おおみわ)神社などにあります。私見ですが厳重な結界を意味しているような気がします。

 79番 天皇寺です。崇徳上皇は日本三大怨霊の一人とされ、この霊を鎮めるために白峯神社と天皇寺が作られたとされます。金比羅宮と81番 白峯寺も怨霊封じ込めの役割を担っていたとすると仏教と神道が共同して結界を張らないと治まらないほどの怨霊だったということでしょう。この写真に写っているお遍路は白人でした。

 参拝の後 八十場駅から丸亀へ列車移動して投宿しました。八十場駅は駅舎が無く、雪がちらつく寒風の中で30分以上列車を待ちました。怨霊の祟りもこの程度で済めばありがたい。この日は列車をフルに使ったにもかかわらず 3万歩 25kmでした。

4日目 史跡の道を歩いて崇徳天皇陵を拝み、桃太郎伝説にも出会う。

 丸亀駅から国分駅まで列車移動。そして国分寺まで歩いて15分。国分寺と言う名前の寺は八十八カ所の中に4つあります。80番 国分寺はその最後の寺です。奈良時代に作られた日本を仏教で統治しようとする東大寺国分寺システムがこの寺の起源で、元々 国立なので敷地は相当広かったはず。今はその一部しか寺として使っていません。

 国分寺からは山登りです。途中に徳島の焼山寺と同様に「遍路ころがし」と呼ばれる急坂があります。焼山寺ほど繰り返しはありません。3時間ほどかかって81番 白峯寺に到着。山道を登ってきた後の石段がきつい。

 石段の登り口の左にもうひとつの寺院があります。

 この寺院の奥にあるのが崇徳上皇(ここでは天皇と書いてあります)のお墓です。参道は先ほどの仁王門とはつながっておらず、かなり手前から左を回って行きます。

 ここは最敬礼して戻り、次の目的地 82番 根香(ねごろ)寺を目指しました。

 白峯寺根香寺間の遍路道は石碑・石仏が江戸時代に作られた絵図とほぼ一致していて、道自体が史跡になっています。

 

 途中で白峯寺 奥の院に参拝。洞窟と石仏がありました。しかし、ここへ行く道は急斜面でした。この頃には疲労が蓄積して踏ん張りが利かず、かなりこわかった。

 82番 根香(ねごろ)寺 到着。またしても石段です。

 根香寺は山岳宗教 修験道との関連が深いようです。役行者(えんのぎょうじゃ)の像がありました。

 この像は昔この地で暴れ回っていた怪物 牛鬼(うしおに)です。根香寺の助けを借りた弓の名手によって射殺されたとの伝説があります。この像は仁王門の方をまっすぐににらんでいるので門を出たとたんに目が合います。

 ここから鬼無(きなし)駅まで歩いて行きます。登った分は降りなければならない。古傷の膝に負担を掛けないように降りて行きます。

 鬼無には桃太郎伝説があります。桃太郎神社がありました。地図には熊野神社と書いてあります。

 神社前にあった掲示板です。

 時間切れで鬼塚などは探せませんでした。この他におじいさんが芝刈に行った山とかおばあさんが洗濯をした川の場所、鬼ヶ島の場所など特定されています。桃太郎と言えば岡山のイメージですが、案外 ここかもしれません。

 この後 鬼無(きなし)駅から高松へ移動して投宿。今日の歩数は4万歩でした。山道で歩幅が狭いので距離は30km以下だと思います。

5日目 琴電を活用して源平の戦いの跡をめぐる。

 今日の行程は比較的余裕があります。8時ごろホテルを出発。琴電でコトコトと琴平線一宮駅で下車。高校生の登校の列に混じって10分ほど歩いて83番 一宮(いちのみや)寺に到着。

 一宮寺は小さなお寺です。名物は敷地のほぼ真ん中にあるこのお堂です。ここに首を突っ込むと地獄の釜が煮えたぎる音が聞こえることがあるとの伝説があります。ただし、首が抜けなくなることがあるのでやらない方が良いでしょう。

 また琴電に乗り瓦町で志度線に乗り換えてコトコトと潟元駅まで。ここから屋島へ登ります。登山道は地元の中高年の運動の場になっていて大勢歩いています。

 84番 屋島寺は仁王門が二重になっています。

 

 屋島寺本堂は彩色されているので新しく見えるが鎌倉時代のものです。

 屋島からの下山道はあり得ないほどの急斜面で、張ってあるロープを頼りに降ります。落葉が溜まっていてすべるのでかなり危ない。

 次の85番 八栗(やくり)寺へは一度下まで降りてまた登ります。途中に源平に合戦の跡が次々に出てきます。八栗寺の背後にある岩山は五剣山です。昔は岩峰が5つあったが、宝永年間の地震で一つが崩れ、今は4峰しかありません。遠くからでもよくわかる奇岩です。

 ここから海の近くまで降りて志度を目指します。志度の町のシンボルは平賀源内です。彼の墓もあります。86番 志度寺です。

 志度寺の中は木がたくさんあって、下草も茂っていて、植物園のようになっています。ご住職の嗜好と思われますが、こんなに繁茂しているのは八十八カ所の中ではここだけでしょう。

 琴電志度駅まで歩いて終了。歩数は3万歩でした。25kmくらいでしょう。

6日目 最終日 女体山ルートに苦戦するもゴール

 高松のホテルを夜明け前に出て琴電で長尾駅へ。下の写真は長尾駅の手前にある白山(しらやま)です。この山はきれいな富士山型です。自然現象でこのような形ができるものなのか大変不思議で、もしかしたら人工物かもと思い、以前 この山に登ったことがあります。山頂に噴火口は無く、露頭を見る限り火山岩でした。人工物ではありませんでした。Wikipediaによると讃岐に多い富士山型の低山は1400万年前の火山活動により溶岩が流れ出した跡だそうです。

 87番 長尾寺琴電長尾駅のすぐ近くです。現役時代に高松に出張することが複数回あり、暇を見て長尾寺にも2回ほど来ています。広い敷地にコンパクトな寺院が並んでいて特徴と言えるほどの特徴が無く静かです。これまで86カ所を野越え山越え歩いてきて着いた所が広い空間と静寂。これが「空」を体現しているような気がしてとても印象に残っています。そして次の88番 大窪寺は背後に岩峰があったりして、すごく特徴がある。この配置の妙がすごいと思います。

 さて最終地点88番 大窪寺を目指します。16kmくらいのはずです。途中にあった高地蔵と呼ばれる素朴な石仏です。このあたりで行き倒れになった遍路たちを供養するために作られたもので、今でも近隣の人々が集まって年に1回お祭りをするそうです。結願の地 大窪寺まであと10kmなのに倒れた人々は残念だったでしょう。

 途中の遍路サロンにて懇談。全部歩いた遍路は遍路大使に任命してくれるとのことでしたが、私は列車・バス活用なので失格でした。道を教えてもらって出発。

 今回は女体山ルートを取り、奥の院 胎蔵寺に立ち寄ることにしました。ところが、このルートが予想外に険しく、途中で反省したが時すでに遅い。山頂付近で道が無くなり岩登りになります。装備をリュックにしまい込み、3点確保(ロッククライミングの基本。手と足4本のうち3本を固定し、1本だけを次々と動かして登る。)なら落ちないと信じて登りました。

 女体山山頂から讃岐平野の眺望です。雪が残っていて、これも危険でした。遠くにうっすらと昨日参拝した八栗寺の背後にあった五剣山が見えました。(この写真ではよくわかりません)

 大窪寺 奥の院の胎蔵寺です。石仏は新しいものですし、寺院の建物は無く、トタン板で囲われた小屋があるだけです。お賽銭がむき出しで積まれていてほとんど管理されていないようでした。崖の下のくぼみなので、昔の人が何かのパワーを感じたのでしょう。

 88番大窪寺です。11時半頃到着予定でした山登りに苦戦して12時過ぎでした。結果論ですが女体山を通らずに旧遍路道大窪寺に来て、ここから奥の院に登った方が早かったと思います。いずれにせよゴールできました。歩数は3万歩。20km以上歩いたことになります。女体山ルートは遠回りです。

 大窪寺前にある食堂兼みやげ物屋の名物 打込うどん。野菜など具がたくさん入ってやや甘めの白みそ仕立て、唐辛子が効いて冷えた体が暖まる一品。950円。

 これで1年がかりの四国お遍路の旅もおしまい、ではなくて、3カ所ほど行きそこねた所があるので、来年また来ます。しかし、ここにはもう来ることは無いので仁王さんにご挨拶してバスに乗りました。

 長ったらしいブログを読んで頂きありがとうございました。これだけでは情報不足でしょうが、実体験ですのでガイドブックと合わせればご参考になると思います。少しでもお役に立てば幸いです。