般若心経/哲学と宗教の間 前編
四国のお遍路に行ってきました。遍路は各札所の本堂と大師堂でそれぞれ般若心経を読みます。私も声を出して読みましたが、読むからには何が書いてあるのか知りたいと思って少し勉強してみました。
まず、このお経には神様・仏様は出てきません。天国・地獄などこの世とは次元の異なる世界の話も出てきません。超自然的なことが出てこないことは私のようなヘそ曲がりにはむしろとっつきやすいのです。
般若心経は仏教のエッセンスであるという人がいます。しかし、仏教の基本的教義を「空」とか「無」とかで否定してしまいますし、一方 仏教には天国も地獄も出てきますので、このお経はむしろ異端のお経ではないかと思っています。その部分については後でご説明します。
このお経は観自在菩薩(観音様)が舎利子(シャーリプトラ)に対してこの世の真理を語った内容が書かれています。左が観自在菩薩 衆生が救われるまで如来にはならないと誓願された菩薩。観音様のことです。様々に形を変えます。まだすべての人々が救われてはいませんので、まだこの世界のどこかに存在するとされます。この像は薬師寺の聖観音です。右が舎利子(シャーリプトラ 舎利弗(シャリホツ)とも言われる)実在の人物で仏陀の10大弟子の一人。知恵第一とされ論客だったと言われます。この像は京都大報恩寺にある運慶作のものです。
般若心経の成立は3~5世紀と言われています。仏陀は紀元前5世紀の人なので、仏陀の時代から約千年後に成立したことになります。元々はインド語 サンスクリット語です。それを玄奘三蔵が漢訳し、日本に伝わりました。つまり観音様の言葉を西遊記で有名な三蔵法師が中国語に翻訳し、それが日本に伝わったのです。それだけでもドラマチックだと思います。
さて、ちょっと面倒ですが、お経の日本語訳をやってみます。もちろん参考書からの丸写しです。
摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)
偉大なる智慧の完成についての心髄の経
観自在菩薩 (かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時 (ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
観音様が般若波羅蜜多について深く考えておられたとき
照見五蘊皆空 (しょうけんごうんかいくう ) 度一切苦厄 (どいっさいくやく )
五蘊は全て空であることを悟られ、一切の苦しみから解放された。
まず、「般若」の意味ですがは、コトバンクによると 「仏語。悟りを得る智慧。真理を把握する智慧。」とあります。このお経のキーワードです。まずは「素晴らしい知恵」くらいに理解して次に進みます。
仏陀はいろいろなことを各要素に分けて解析し数える傾向があります。いちいち数と結びつけるところはさすがに数字に強いインド人です。五蘊とは対象に対峙した時の人間の心の働きを解析したものです。(私見)
五蘊 ごうん
色蘊(しきうん)(対象を構成している感覚的・物質的なものの総称)
受蘊(なんらかの印象を受け入れること)
想蘊(イメージをつくる表象作用)
行蘊(ぎょううん)(能動性をいい、潜在的にあり働く)
識蘊(具体的に対象をそれぞれ区別して認識する働き)
いっさいを、色―客観的なもの、受・想・行・識―主観的なものに分類する考え方は、仏教の最初期から一貫する優れた伝統とされる。[三枝充悳氏の解説]
前半の色・受・想はなんとなくわかります。行は少しわかりにくいが、対象に働きかけることと解釈しています。識はもっとわかりにくい。色(感覚で対象をとらえ)→受(印象を心で受け入れ)→想(心の中にイメージを作り)→行(対象に働きかける)。ここまではマルクスの唯物論に似ていて、この4つで完結しているように思えます。そうなると識とは何でしょう? 色・受・想・行のサイクルをより深く突き詰めていくことなのでしょうか?解説書を見るとお坊さんや仏教学者は基本中の基本と考えるようで特に不思議には思わずに先に行ってしまいます。しかし、私はこの段階から仏陀が仕掛けた謎が始まると思っています。仏陀の言葉はとても当たり前のことばかりに聞こえますが、そのなかに哲学ではなく宗教に導く謎あるいは罠が仕掛けてあると考えるのは考えすぎでしょうか?
般若心経は五蘊は「空」であると断言してしまいます。このことは学んでもわからないと後の方に書いてありますので、とりあえず解釈せずに先に行きます。その次の「度一切苦厄」はもっとわからない。五蘊が「空」であることを悟ると一切の苦しみから解放される。そのメカニズムがわかりません。なお、般若心経のサンスクリット語原本には度一切苦厄は無いそうです。この言葉は三蔵法師が付け加えたのではないかと言われています。だとすると翻訳者のやりすぎで、誤訳とも言えます。(参考文献(2))
最初の2行だけでこれだけつまづいてしまいました。後が大変です。ともかく先に進みましょう。
舍利子 (しゃりし) 色不異空 (しきふいくう) 空不異色 (くうふいしき )
シャーリプトラよ。目に見えていることは空に他ならず、空こそが目に見えていることに他ならない
色即是空 (しきそくぜくう) 空即是色 (くうそくぜしき )
目に見えていることはすなわち空であり、空が目に見えていることである。
受想行識亦復如是 (じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ )
五蘊の色以外の4要素である受想行識も同様である。
観音様がシャーリプトラに呼びかけています。この部分が重要だということでしょう。色即是空 空即是色 は とても有名な一節です。ここだけ覚えておいても損はありません。しかし、日本語では「色」というと欲望、特に性的欲望の意味がありますが、先に説明したように、ここではもっと広い意味です。
見えているもの、感じている対象は空である。ここで思い出すのは、西洋哲学者デカルトの「我思うゆえに我あり」です。デカルトは感覚を疑うと世界の存在さえ疑わしいと考えました。まさに色即是空です。しかし、彼はそれを考えている自分自身の存在は疑いようがなく、しかも自分の心の中に「神」の概念があることに気がつきました。神の概念があるからには、それに対応する神の存在があり、従って世界は存在するとデカルトは結論しました。ところが、般若心経は別の方向に進んで受想行識つまり心の動きも「空」であると言い切ってしまいます。次の節に「空」についてのヒントがあります。
舍利子 (しゃりし)
シャーリプトラよ
是諸法空相 (ぜしょほうくうそう)
諸法(ものごとの存在の要素・根源)は空なのだから
不生不滅 (ふしょうふめつ) 不垢不浄 (ふくふじょう)不増不減 (ふぞうふげん )
生まれたり滅したりすることは無く、汚いとかきれいとかいうことはなく、増えたり減ったりすることも無い。
またシャーリプトラへの呼びかけがありました。ここも重要だということです。キーワードは諸法空相です。ものごとは「空」なので生まれたり無くなったり、増えたり減ったり、きれいとか汚いとか言うことは無い。つまり「空」は存在しないという意味ではないのです。
ここのところは心に落ちました。物事にきれいとか汚いは無い。このことは重要だと思います。仕事にきれい・汚いはありません。トイレ掃除は汚い仕事ではありません。
物事に増えたり減ったりは無い。我々は経済成長とか出世とかを目標としているところがあります。そんなことに意味はないのです。
是故空中 (ぜこくうちゅう) 無色 (むしき) 無受想行識 (むじゅそうぎょうしき )
それ故に空の中には色も受想行識もなく
無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんい) 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
感覚も無く(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、意識する)感覚により捉えられる表象(色、声、香り、味、感触)も無い。
無眼界 (むげんかい) 乃至無意識界 (ないしむいしきかい)
目に見える世界も無く、内面の意識の世界も無い
ここで般若心経が「無」だと言っている「眼耳鼻舌身意」は六根と言って人間の知覚のことです。この六根が何を知覚するかというとそれぞれ「色声香味触法」です。これらを六境と言います。ここにも仏陀が仕掛けた謎=罠が隠れています。西洋では知覚は5種類です。6つ目はSixth Senseとして超能力や霊感のことでホラー映画のテーマになったりしています。ところが仏教は最初から知覚は6種類あると言っています。6番目の知覚「意」が感知するのは「法」です。般若心経は六境も「無」だと言っています。
次の行で般若心経は六識も「無」だと言っています。六識は六根、六境からそれぞれ識を生じたもので、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です。般若心経はそれまで一つ一つ述べていたものを(無)眼界乃至(無)意識界とまとめてしまっていますが、六根・六境・六識を合わせて十八界と言うので、それを踏まえています。なんと「意」と「法」から生じたのは「意識」でした。人間の精神の根本が出てきました。意識は見るとか聞くとかの知覚(五感)とは異なる要素から生じるということでしょうか。
AIは意識を持つことができるか?
般若心経からは離れますが、ちょっと妄想してみます。人間の意識、あるいは自己と言いましょう、は自己と世界との関係のことだと思っています。つまり無限ループです。自己を固定して取り出すことはできませんし、確定することもできません。よく言われる「本当の自分を見つける」とか「自己の確立」などはそもそも意味がありません。コンピューターは無限ループをエラーと判断します。この問題を解決できればAIは自己あるいは意識を持つかもしれません。自己は世界と切り離して取り出したり固定することはできない。このことを般若心経は「空」であると表現したのかもしれません。もちろん、これは私の自己流の勝手な解釈です。
ここで一度休憩します。
参考文献